時間泥棒から逃れるために

ミヒャエル・エンデの名作「モモ」をようやく読むことができた。

今さら私が言うことではないけれど、これは本当に特別な本だと思う。まるでカウンセラーのような野性の少女モモが、謎の時間泥棒たちと闘って、ひとびとの失われた時間を取り戻す話である。優れた児童文学はみんなそうなのだと思うけれど、これは小説とも散文詩とも寓話とも、どんな呼び名も適切ではないような気がする。そのすべてを含んでいる。

読み始めると、冒頭からすぐに素敵な作品世界に引き込まれる。そこは、この世界とも、読み手ひとりひとりの記憶の世界とも、もしかしたら読み終えた後の読者の未来ともつながっている。だから、これは胸躍らせて読む本ではあるけれど、一気に読み通すつもりにはなれない。まさに散文詩のように、読み含める、という形容そのままに、いとおしんで読み続けることになる。これこそが読書の幸せである。しかし、そんな幸せを与えてくれる本は決して多くないと私は思う。

それにしても、これは本当に児童文学なのだろうか。少なくとも少年時代の私に理解できる本ではなかったと思う。こうして歳を重ねて、白髪が混じる年齢になった今こそが、この本を私が読む適齢期のように思う。だから、この本に感銘を受ける子どもたちはすごいと思う。

ここに登場する時間泥棒とは、何物にも追われることなく誠実に幸せに日々を生きていたひとびとから、そんな幸せな時間を奪ってしまう連中である。その時間を食べて連中は生きるのだけど、時間を奪われたひとびとは、チャップリンの映画に出てくるような、時間に追われて生きるだけの、まるで裕福な奴隷のような人間になってしまう。

恐ろしいことに、それは今の我々とまったく同じである。そんな時間泥棒たちと闘うことができるのは、それまで幸せな時間を生きていた町のひとびとではなくて、どこかからやってきた身元も知れない少女だった、というところが、何か大事なことを私に教えているような気がする。

今書いた、この本の世界が私の未来にまでつながっているような気がする、ということがそれと関係しているように思う。

いつのまにか、私も時間泥棒と契約してしまって、時間に追われる裕福な奴隷になってしまった。しかし、身体と心はそのことを忘れてはいない。折りにふれて、それは様々なメッセージを送ってくる。そのメッセージは身体のどこかの痛みであったり、愉快とは言えない夢であったりする。

こんな悪夢を打ち破ってくれるのは、身元不明の少女モモのような、我々のこの世界のはずれに生きるひとではないか、という予感がある。この本が私の未来ともつながっているような気がする、というのはそういうことである。もちろん、私もただ口を開けてそれを待っているだけではいけない。それは触媒のような、他者による何かのきっかけが必要なことではあるけれど、その触媒にふさわしい私であるように準備をしておくのが、今の私にできることなのだろうか。

「モモ」が書かれたのは今から五十年以上前のことだけれど、年月を経るごとに新鮮さを増して新たな読者を獲得してゆく、そんな名作は本当に素晴らしい。これを古典と言うのだろう。こんな名作を読んでいると、いちいち今の世の中に悲観していても仕方が無い、そんな気持ちになる。

みんないったい何をそんなに急いでいるのだろう。ふと私はそう思う。心がけ次第で誰もが健康に長生きできる世の中になったのに、何でこんなに忙しく生きなくてはいけないのだろう。

時間をかければたいていの望みはかなうものなのに、なぜひとはこうもあきらめがよすぎるのだろう。望みは想定外の形でかなえられることが多いのに、なぜそれを待てないのだろう。それが私には不思議で仕方が無い。そんな日がやって来るまで、日々をいとおしんで、あれこれ夢をみながら楽しく誠実に生きてゆけばよいのに、なぜひとは、私を含めて、時間に追われる裕福な奴隷になりたがるのだろうか。

それに気づいただけでもこの本を読んでよかったと思う。これに気づくためには私自身、白髪が混じるこの年齢まで生きる必要があった。

そんな、白髪が混じる年齢になったとは言え、私にはまだ生きる時間が残されている。以前に書いたとおり、私の人生はこれから始まるのだと思う。そのために、今はこの新緑の季節の中で、少し立ち止まってみてもよいような気がしている。そしていつの日か、私自身が少女モモのように、誰かの時間を取り戻してあげることができる人間になれたら、それは本当に幸せなことだと思う。これも私のこれからの生きる望みになるのだと思う。

[ BACK TO HOME ]