写真の別世界

この文章が掲載される頃、世の中では高校野球が始まるのだろうし、大学入試の結果も明らかになっている頃だと思う。

私はアマチュアスポーツには興味が持てないので、高校野球について何も言うつもりは無い。

それでも、全国規模の高校生の野球大会を年に二回も開催して、これを国営放送が完全生中継して、それが国民的な話題になる。これは極めて特異なことのように私には思えてならない。野球でなくとも、サッカーでも何でもよいのだけれど、こんなことを毎年繰り返している国が他にあるのだろうか。日本はつくづく不思議な国だと私は思う。

あれは、都道府県単位の対抗試合として、日本人の郷愁を誘うように構成されているのだ、という見解を私は聞いたことがある。日本が藩ごとに分かれていた江戸時代のなごりがこんなところにかいま見えるのだろうか、と私はうがった見方をしたくなる。

それにしても、日本人は、こんなふうに競い合って順番をつけるのが好きなんだなあ、と私は改めて思う。ずっと以前、私は誰かに「日本人は順番をつけるのが好きな国民なんだ。このことは憶えておくといいよ」と言われたことがあるけれど、本当にそのとおりである。そう思って世の中を見渡してみると、いろんなことがよく見えてくるように思う。

日本の大学受験にしても、大学が入学試験の難易度で精密に序列化されている。これまた奇妙で特異なことではないだろうか。それは言うまでもないことだけれど、大学の教育や研究には無関係なことである。

この奇妙な序列を真に受けて、若者が受験勉強に心身をすり減らすのは人生の浪費である。どこの大学にもいい先生はいるのだから、ちょっと頑張れば入れる、というくらいの大学に入って、そのかわり、入学してからも余裕を持ってこつこつ勉強を続ければよいのだ。

その方が楽しいし、先生に可愛がってもらえるし、仲間も一目置いてくれる。それを続けているうちに、いつのまにか大きく成長できる。自分で道を拓く生き方が身につくし、学歴以上の実力を身につけて卒業すれば、世の中はそれを大いに認めてくれるのである。世の中に出てからも、秀才と言われるひとたちの長所も短所もよく見えるようになる。

逆に、無理をして難関大学に入ってしまうと後が大変である。そこには、たいして受験勉強をしなくともスイスイ入学してきた秀才がひしめいているのだから、受験勉強で疲れているうえに、それ以上に努力をしても彼らにかなうわけが無い。すぐに気持ちがいじけてしまうし、そんなつまらない大学生活を送るのは馬鹿げている。なんとか卒業して世の中に出てからも、出身大学の看板に負けてしまって、自分の実力を低く見られることになりかねない。

これも言うまでもないことだけれど、受験勉強なんて、入学試験を突破する以外に何の役にも立たない。義務教育で習ったことを、学科以外のことも含めて大切にして、これに自分で勉強したことや経験したことを積み重ねてゆけば、世の中は渡ってゆける。この歳になって、私にはそれが良く分かる。

前置きがずいぶん長くなってしまったけれど、日本人は、そもそも順番をつけるべきでないものにまで順番をつけるのが本当に好きなのだと私は思う。何度でも繰り返して私はそのことを言いたい。この序列化のために、過剰で無駄な努力をして、事の本質を見誤っていることが、どの世界でもずいぶん多いように私は思う。

ここでようやく写真の話になるのだけれど、本来、写真なんて順番をつけるべきものではないはずである。見方によって、見るひとによって、その評価はいくらでも変わるからである。これに気づいていないやつがどうしてこんなにたくさんいるのだろうか。私は、もう愛想が尽きてしまった。

コンテストとか、順番をつける展覧会とか、内輪だけであんなことを繰り返して、いったい何が面白いのだろう。広く世の中に出てゆくでもなく、時代を越えて残るでもなく、何の価値も無くて、ワンパターンでどんぐりの背比べのような写真に、得体の知れない先生方から順番をつけてもらって、それで彼らは一喜一憂している。あれがいい大人のやることだろうか。それが写真だと言うのなら、写真なんかよりも面白いことは世の中にいくらでもある。

一枚、あるいは数枚の写真にタイトルという言葉をつけて、それを権威ある、と言われる先生方に審査してもらって、雑誌や展覧会で発表してもらう。賞金や賞品をもらって、入賞回数ごとに点数をつけて、その合計を競う。こんなことをしていて、いったい何になるのだろう。写真を、射幸心をあおる道具にしているのだ。こんな世界に長くいると、写真も人間も硬直してくるのだけれど、それに気づくことさえ彼らにはできなくなっている。

その母体になっていたカメラ雑誌があらかた姿を消してしまった今になって、こんなことを言っても仕方が無いのかもしれないけれど、そんなコンテストや展覧会の世界は行き止まりの袋小路である。そこでトップになったところでプロへの道が開けるわけではないし、個展ができるようにも写真集が作れるようにもなれない。

十枚単位、百枚単位の写真を自分で構成して、その集積で意識下にあるものを表現する。それを外の世界に送り出して後世に残るような段取りをする。その過程でみずからも鍛えられて成長してゆく。世界が豊かに広がってゆく。そんな写真の醍醐味を、彼らが知らないのは哀れである。

そんな、写真の別世界にたどり着く道は自分で見つけるしかないのだけど、それでも、その手掛かりがこんなに少ない今という時代は、やはり異常ではないかと私は思う。安井仲治や飯田幸次郎といった大人(たいじん)が写真を楽しんでいた時代を時々は思い出すようにしておきたい。それは、今から九十年も前の戦前の時代なのだけれど、その頃よりも今の方がよほどきゅうくつで、ものが見えなくなっているのかもしれない。

この、自由で柔軟で強大で、時代も国境も超える写真の別世界を開く鍵は、実は写真以外のものの中に隠されている。

それは、実人生をしたたかに生きることに尽きるのだけど、これ以外に私の場合、文学と音楽と科学が重大な示唆となって私を鍛えて支えてくれる。それは私の安らぎでもある。写真の中にだけ閉じこもっていてはいけないのだ。

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