まぼろしのような思い出

昨年大みそかの新聞で、まんが評論家の村上知彦氏の訃報が伝えられた。

私はずっと以前、このひとの本を一冊だけ読んだことがある。それは、八十年代の終わりに出版された「情報誌的世界のなりたち」というエッセイ集で、これは今でも私の本棚に並んでいる。ここに収められている「ぐうたらバンザイ」という文章が私をずっと支えてくれたからだ。

この本が出た頃、私は生まれて初めて就職して少し経った頃で、お正月休みで帰省していた盛岡の書店でこれを手にした記憶がある。

「ぐうたらバンザイ」は、著者が大学を卒業した後に五年半勤めた会社を辞めた話で、それが優しく私を包んで支えてくれた。

著者は、確たる理由があって就職したわけでも退職したわけでもない、会社でやりたいことも特に無く、このままいるとずるずる辞められなくなってしまいそうだから、貯金も少し出来たので、辞めてからのことはそれからゆっくり考えよう、ということで退職した。そんなふうなことを書いておられる。

私もそうだったけれど、村上氏は、自分がなぜ会社に勤めなければならないのか、その理由がちっとも分かっていなかった、と書いておられる。態度保留で、私の場合はぶらぶらしていても何もできないのはよく分かっていたから、社会勉強をして貯金を作って、そして、やはりサラリーマンを一生懸命に勤め上げて私を育ててくれた父へのささやかな返礼のつもりで、私は中規模の製造会社に就職した。

私は若かったのだと思う。私は親元を離れてひとり暮らしをしながら勤務していたけれど、そして、村上氏同様、私が勤めた会社は決して悪い会社ではなかったと思うけれど、それでも、私は毎朝会社に行くのが嫌で嫌で仕方が無くて、入社して半年くらいはずっと、午前中は寝ぼけた顔をしていたと思う。

それでも私は意地を張って、毎朝誰よりも早く出社して、後からやってくる先輩方にお茶を淹れて、それが終わると始業までフランス語の独習をしていた。だから、私の寝ぼけ顔に文句をつけるひとは誰もいなかった。

仕事に慣れてくると私の寝ぼけ顔も直ってきて、「阿部は一生懸命やってるよ」と会社のひとに評価されるようにもなったのだけれど、それでも、私はさみしくてさみしくて、仕事のさなかに、会社の窓からよくまぼろしを見ていた。

それは、森山大道さんや北斎やわらさんをはじめとするフォトセッションのメンバーが、会社の門の前に笑顔で現れて、「阿部君なにやってるの、写真撮りに行こうよ」と声をかけてくれるのである。そんなまぼろしを見た日は、私は仕事を終えて自宅に帰るとひとりで涙を流していた。そんな私の気持ちを森山さんは気づいておられたのだと思う。森山さんは、私の会社あてに個展の案内状を時々送って下さった。とても嬉しかった。忘れられない。

村上氏はエッセイの中で、サラリーマンは、うまく立ち回りさえすれば、会社の仕事とは無関係な趣味や時間が持てた、その意味では自由業の方がずっと不自由で厳しい、と書いておられる。それでも会社を辞めようと思ったのは、怠惰への自由、やりたくない時は何もやらない自由、サラリーマンにはそれが不可能だからだ、と書いておられる。

これはまったくそのとおりで、自分の人生を自分でデザインして厳しく自由に生きてゆく、ということがサラリーマンには不可能なのである。これを無理にあきらめようとして、私はその後、二回も心身の不調を招いてしまった。

私はこんなふうに生きてゆくより仕方が無い。これはやってみると大変なことではあるけれど、生きるとはこういうことなのだ、と実感できるし、たくさんの心あるひとの助けを得て、こうして元気に生き続けることができるのである。

今書いたように、私が勤めた会社は決して悪い会社ではなかった。ずいぶん親切にしてもらったし、楽しいこともたくさんあった。それでも、私はそこにずっと勤め続けるつもりは無かった。恩を仇で返さないために、私は大学院に入り直して勉強したい、という理由を作って会社を辞めたような気もする。

私の思惑どおり、その時、会社のひとたちは暖かく私を送り出してくれた。送別会で私は号泣した。大人になってから、ひと前であんなに泣いたのはあの時だけである。あの時の励ましの言葉は今でも私の中で生きている。今や、その会社のひととはすべて縁が切れてしまって、あの頃のことはみんな、まぼろしのような思い出になってしまった。楽しいうちに辞めて本当によかった。

私はサラリーマンには向かない。そんなことは最初から分かっていたのだけれど、今の日本は、正社員だろうが非正規だろうが、勤めなければ収入が得られない世の中である。私と同じような体質のひとも、ずいぶんと辛い思いをして生きているのだろうと推察する。

私は大学にもどったり、その後は比較的しがらみの少ない外回りの仕事をしたり、心身の病気を乗り越えてからは、専門職のフリーターとして仕事を続けてきた。

そんなふうに、私なりに世の中と折り合うことができるようになったのは、ようやく四十一歳の時だったと思う。時間がかかるのである。

そして今、正社員のサラリーマンをつらぬいた友人たちが、そろそろリタイアする年齢になった。この年齢になって、私はようやく自由になった気がしている。

専門職のフリーターを長く続けてきて、この経験を私はどうフィニッシュさせるか。どうすればそれが悔い無く終われるか。それが多少なりとも世の中のためになるか。何よりも私自身が楽しいか。そして、その後に私は何をすればよいか。それがようやく見えてきたのだ。私の人生はこれから始まるのである。

その間、写真がいつも私を支えてくれた。以前、恩人に言われた言葉を思い出しておきたい。「食べるために仕方なく働いているなんてだめです。職業も充実していなければ、よい作品は絶対に生まれません。それがアマチュアの厳しさであり幸せですよ」。

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