不老不死の研究に、世界中の多くの科学者が参加して多額の研究費が投じられている、という記事を科学雑誌で目にした。老化は病気なのだから、それは科学の進歩によって解決できる、という記事を私は別のところで読んだこともある。老化と成長は同じ現象を指す言葉なのだから、それが病気だと言うのなら、人生は最初から最後まで病気の連続に他ならない、ということになる。人生は治療不能の病気である、という名言(迷言?)が科学の進歩によってこんなふうに裏付けられるのかもしれない。
いったい不老不死とはそんなに素晴らしいものなのだろうか。それが私にはまったく理解できない。そして、死ぬのが怖い、という言い分も私にはよく理解できない。だったら、こうして生きているのは怖くないのか、と私は問い返してやりたい。
この世に死んだことがあるひとはいない。にもかかわらず、ひとは誰でもいつか必ず死ぬ。死は当たり前のことでもある。これは本当に不思議なことだけれど、未知のことが怖いのは、考えてみれば当たり前の話である。
だから、死ぬのが怖い、なんてたわけたことを言うやつは、真剣に生きていないのだろう、と私は思っている。かつて、祖母と母の、魂が抜けて行った、という安らかな死に顔を見た私は、死を恐れる必要が無いことをそこで知ったのである。恐れるべきは、与えられたこの人生を存分に生きなかったことである。祖母と母はそのことも私に教えてくれた。
そもそも、人生というやつは、あるいはこの世という世界は、不老不死に値するほど立派なものなのだろうか。それを私は大いに疑問に思う。理由も承諾も無く、こうして与えられた人生は、寿命が尽きるまで一生懸命に、そして楽しんで生きる、それで充分ではないか。私は死ぬことよりも、こうして生きている方がずっと怖いし、誰でも知っていることではあるけれど、生きるのは本当に大変なことである。死というゴールが無ければ、私には人生はとても耐えられそうにない。しかも、病死に伴う肉体的な苦痛は、ありがたいことに、昔よりも大幅に軽減されているのではないだろうか。これこそが医学の進歩だろう。
ただ、老衰以外に安楽な死に方は無い、という話は私も聞いたことがあるし、老衰で死ぬためには体力が必要だ、という話も聞いたことがある。だから、安らかに死ぬために、ひとは健康であることに努めなくてはならない。
もちろん、自殺なんてもっての他である。たとえば、跳び下り自殺は地面にたたきつけられる瞬間まで意識があるらしい。バンジージャンプを考えてみればそれが分かる。だから、跳び下り自殺者は、地面にたたきつけられるまでの数秒間、跳び下りたことを後悔しながら墜ちている、ということになる。自殺未遂者は必ず助けを求めることからもそれが分かる。
要するに、こうして生きているということは、奇跡的ではあるけれど暫定的なことなのだと私は思っている。だからこそ、それは大切にされなければならないし、それを全うした人間にだけ、安らかな死、つまり究極の自由が与えられるのかもしれない。ならば、不死を願うのは愚かなことである。
そして、老化と成長が同じ現象なのであれば、老いという成長を味わうことができないのも哀れなことである。
私にも最近、二十代の若い友人が何人もできたけれど、彼ら彼女らに対する感情は、私が生まれて初めて味わうものである。それは、うらやましさとも恋愛感情とも異なる愛しさである。これは、こうして歳を取らなければ分からないことだろう。もし、私が彼らと同じ精神と肉体を持ち合わせていたら、こんな素敵な感情を味わうことはできない。この愛しさを知ると、私を今まで気遣ってくれた年長の恩人や恩師の気持ちがようやく理解できるようになる。その中には、もちろん森山大道さんも含まれている。しみじみとしていて、とてもいい。
そんなわけで、自分でも知らないうちにひとは変わってゆく。こうして写真を撮り続けていると、そのことに気づかされる。何十年も前に撮った写真をたまに見返すとそれが分かる。良くも悪くも今の私はこんなふうには撮らない、ということで、まさに写真は記録なのだ、と私は思い知る。
私は天才ではないから、そんな時、自分の幼さやつたなさに気づくことになるのだけれど、たとえば、先日、九十九歳で亡くなった名ドラマー、ロイ・ヘインズの演奏は、若い頃からすでにロイ・ヘインズ以外の誰でもない。本当の才能とはこういうものなのだろう。九十二歳で亡くなった谷川俊太郎の詩もそうだ。八十年も自分の道を歩み続けて、そしてあの世に旅立つ。不老不死なんかよりも、これはずっと素敵な生き方である。自分の人生を評価するのは自分以外の他者なのだから、才能が有ろうが無かろうが、精一杯に生きればそれで充分なはずなのだ。
二〇二四年は、私にとって忘れられないひとがたくさん亡くなってしまった。
写真家では篠山紀信、吉田ルイ子、細江英公、映像詩を残してくれた佐々木昭一郎、文学者では他に宇能鴻一郎、鈴木道彦、音楽家では他にデヴィッド・サンボーン、クインシー・ジョーンズ、そして年末には中山美穂も亡くなってしまった。
みんな素晴らしい仕事を残したひとばかりだけれど、それでも、このひとたちはきっと、どれだけ長く生きたところで人生に完成は無い、ということをよく知っていたのだろう、と私は想像している。それには遠く及ばないにせよ、私は私でゆるやかに歩み続けるばかりである。