ラピュタとフウイヌム

「ガリバー旅行記」と言えば、船員ガリバーが巨人国と小人国を訪れる、子ども向けの物語だと思っているひとが多いのかもしれないけれど、実はこの物語には、その続きとして、第三篇「飛島(ラピュタ)渡航記」と第四篇「フウイヌム(馬の国)渡航記」がある。しかし、この第三篇と第四篇は子ども向けの読み物には収録されていない。内容があまりにも強烈だからである。

私は十代の頃、新潮文庫から出ているジョナサン・スウィフト著中野好夫訳「ガリヴァ旅行記」を買ってはみたのだけれど、この第三篇と第四篇は読まずにずっと本棚の飾りになっていたのだった。

訳者あとがきに、「第三篇、第四篇だけは是非読んでもらいたいのである」と書かれていたことは私も知っていたけれど、これは当時の私に歯が立つ物語ではなかった。

ただ、十七世紀から十八世紀にかけての大英帝国に生きたスウィフトが、五十歳近くになってからこれを書いたこと、そして、書き終えてしばらくして、最晩年の七十代になって、彼が精神を病んで正気を失ったことは私も知っていた。

もしかしたら、著者と同じくらいの年齢にならなければ読めない本というものがあるのかもしれない。私の本棚で何十年も飾りになっていた「ガリヴァ旅行記」の第三篇と第四篇を私はようやく通読した。面白いので一回読んで、今は二回目である。

第三篇の「ラピュタ」という飛島の呼び名が宮崎駿の映画のタイトルになっていることはよく知られていると思う。私は映画の内容を忘れてしまっていて申し訳ないけれど、それはスウィフトの物語とはずいぶんと違っていたような気がする。

ここでスウィフトが描いているラピュタの運航についての記述は、数学的な正確さを備えていると私は思う。とても後年になって正気を失う人間が書いた文章とは思えない。

そして不思議なことに、ここに当時は知られていなかった火星の衛星についての記述がある。火星のふたつの小衛星、フォボスとダイモスが発見されたのは、これが書かれてから百五十年も後のことなのだけれど、ここに書かれているその物理的な性質がかなり正確なのである。まるで、フォボスとダイモスの存在を予見しているように読める。いったいスウィフトとは何者だったのだろうか。SFの先駆と呼ぶには話が出来すぎている。スウィフトは同時代の天才物理学者ニュートンの論敵だったらしいけれど、それと何か関係があるのだろうか。

そして、この第三篇で語られているのは、政治や官僚制度、あるいは無能な学者たちへの強烈な風刺である。読んでいて、これが十八世紀の大英帝国の話とはとても思えない。二十一世紀の日本のことを書いているように思えて仕方が無い。本当に、スウィフトとはいったい何者だったのだろう。

次の第四篇は、高貴で理知的な馬(フウイヌム)が、下劣で不潔で愚かな、人間そっくりのヤフーと呼ばれる動物を支配する国に、ガリヴァが渡る物語である。

小松左京の短編に、「人間という畜生」という言葉があったのを私は憶えているけれど、ここにはその、人間という畜生の悪徳が余すところなく語られている。そして、ガリヴァはフウイヌムに、人間社会の悪徳、つまり戦争とか差別とか犯罪とか、について語るのだけれど、高貴な精神を持ち合わせているフウイヌムたちにはそれがまったく理解できないのである。これも、十八世紀の大英帝国の話とはとても思えない。二十一世紀の、我々の世界について語っているように思えて仕方が無いのである。

人間の悪徳は、何も今に始まったものではない。「ガリヴァ旅行記」の第三篇と第四篇を読むと、このことがよく分かる。言葉と国家を発明して以来、人間の悪徳は何も変わっていないのだろう。

それを思い知らされると、私は本当にさわやかな気持ちになる。二十一世紀の我々の前に転がっている悪徳なんて、何を今さら、というような、怠惰で凡庸なものでしかないのだろう。もちろん、私だってそんな人間という生き物の一員なのだけれど、こうしてスウィフトを読んでいると、それがどうした、という気持ちになってくる。笑って安眠するしかないではないか。これも希望の一種なのだろう。なるほど、文学の力は偉大なものである。

仏陀は「中庸」ということを言ったらしい。何物にもとらわれずに、穏やかに正確に、そして微細に事象を観察すること。それが「悟り」への道である、ということだったと思う。それには、この上なく強靭な精神と肉体が必要とされるのだけれど、正気を失う前のスウィフトも「中庸のひと」だったのかもしれない。もしかしたら、スウィフト最晩年の狂気は、彼の文学的な才能とは無関係だったのではないか。私はそう考えてみたくなる。

繰り返しになるけれど、強靭な精神と肉体を備えて、そんな「中庸」のまなざしを持っていれば、二十一世紀に生きる我々も、実は何も恐れる必要は無いのかもしれない。

世の中にはびこる悪徳なんて怠惰で凡庸で、今に始まったものではない。そんなものは笑い飛ばして安眠すればよい。それだけのことなのかもしれない。

[ BACK TO HOME ]