最近の研究によると、この宇宙は今から百三十八億年前に始まったのだそうだ。ビッグバンと呼ばれる大爆発によって空間や時間が生まれて、その後に物質が生まれて、百三十八億年という長い時間をかけて我々人間が生まれて、こうして生きている、ということである。残念ながら、その歴史を説明することは私には無理である。分かりやすい一般向けの解説書がたくさん出ているので、それを一読してみてほしい。こんなに面白い読書はなかなか無い。
そんな解説書の中で、私は松原隆彦著「宇宙の誕生と終焉」という本を時々読み返している。著者は宇宙の歴史だけでなくて、そこに人類の歴史をからめて話を進めてゆくのでとても面白い。図版も綺麗である。
その中に「宇宙カレンダー」という話が出てくる。百三十八億年という、とてつもなく長い宇宙の歴史を実感することは我々には難しいので、これを一年に縮めてみるとどうなるだろうか、というたとえ話である。
つまり、この宇宙が始まったビッグバンを元日の午前零時として、その百三十八億年後の現在を大みそかの二十四時とするわけである。こうすると、時間の速度が百三十八億倍になる。宇宙カレンダーの一秒は、なんと現実時間の約四百三十八年に相当するのだそうだ。
今(西暦二〇二四年)から四百三十八年前と言えば、西暦一五八六年、日本では時代は安土桃山、歴史年表によると、羽柴秀吉が太政大臣となって豊臣姓を賜った年である。その後に徳川家康の天下になって江戸時代が始まり、明治維新を経て今の令和にいたるまでの時間がたったの一秒なのである。
あるいは、ホモ・サピエンスの登場と共に現在の人類の歴史が始まった、と考えてみても、その二十万年におよぶ時間は、宇宙カレンダーではわずか八分でしかない。
そして、ひとりの人間が八十年余りの人生を生きるとすると、その時間は宇宙カレンダーではたったの〇・二秒に過ぎないらしい。まさに、あっと言う間もなく人生は終わってしまうのである。宇宙の歴史から見ると、夏に見る打ち上げ花火よりも人生は短い。
この短さをどう考えるかはひとそれぞれだろう。ほんのつかの間だけ咲いて消えてゆくからこそ人生は素晴らしい、と考えることもできる。
ただ、そんな、ほんの一瞬で一生を終えてゆくひとりひとりの人間を支配する、人格を持った神様なんか存在するわけは無いだろう、と私は思う。〇・二秒くらいで終わってしまう、しかも何十億も存在する人生をひとつひとつ管理する神様なんているわけが無い。
代わりに、宇宙の法則と、同時代の生者と死者が我々ひとりひとりを見守っている。ならば、それを忘れることなく我々は自由に生きればよい。そう考えると、カルトやオカルトに惑わされることも、政治に振り回されることも無くなる。我々の前には青空が広がっているだけである。
そんなふうに、打ち上げ花火よりも短い人生を送る我々ではあるけれど、それでも、私はこうして幸いなことに、健康なまま人生のなかばを過ぎることができた。そうすると不思議なことに、人生は長い、という、それと相反する感慨にとらわれることになる。
幼年時代や少年時代の思い出をふり返ってみると、確かに人生は長い。あの頃の私と今の私はつながってはいるけれど、もはや別人である。何十年も前の私が、まるで前世の私のように思えるのだ。でも、その前世の私が今の私を支えている。
ひとは変わる。あるいは、変わり続ける生き方をしていると、人生は長くなる。そういうことなのだろうか。
平凡なままでたいした苦労も無く、人格が変わるような事件に遭うことも無く、あるいは酔生夢死と言うのだろうか、そんな人生にあこがれる気持ちがいまだに私の中にはある。どうして私はそんなふうに生まれつかなかったのだろう、と思うこともある。もちろん、私の人生なんてたいしたものではない、それは承知しているつもりだけれど、それでもそう思う。
ただ、そんな酔生夢死のような人生が私に与えられたとしたら、退屈のあまり私はおかしくなってしまうだろう。だから、天才バカボンのパパのように、「これでいいのだ」と自分に言いきかせて、これからも私は手探りで生きてゆくより仕方が無い。
元号が令和になって、私は素敵なひとたちの助力で、三冊の小写真集を作ることができた。そのおかげで私はまた一皮むけることができた。もう以前のままの私でいることはできない。
三冊目の写真集が完成した時、私は「昔だったら、これが俺の人生の集大成だ、と言って死んでしまってもよかったのかもしれない」とふと思った。でも、私にはまだ撮り続ける時間が残されている。写真以外でも、今まで勉強してきたことを私は世の中に返す必要がある。与えられた時間をそんなふうに生きることは、とても楽しいことだろうし、周りのひとたちにも必要なことなのだろう、と今の私は思う。
打ち上げ花火よりも短い人生を私はそんなふうに生きてゆく。その覚悟だけは私の中で定まったと思う。ならば、人生の短さや長さなんてことは、もう忘れてしまえばよいのだろう。深く理解してしまえば、そんなことはもうどうでもよくなる。後は、深い青空を望みながら生きるだけである。