今年は小説家フランツ・カフカが亡くなって百年になるのだそうだ。一九二四年六月に、カフカは満四十一歳にひと月足りない年齢で病死してしまった。
それに合わせて、日本でもカフカに関する本がいろいろ出版されている。私は新潮文庫から出た「カフカ断片集」を入手して少しずつ読み続けている。
カフカは職業作家ではなかったので、没後にたくさんの文章が残されることになった。それは、締め切りに追われた作家が書き散らした原稿の残骸、というわけではまったくない。
この断片、あるいは断章と呼んだ方がよいだろうか、これは夢の記録のようでもあるし、ショートショートや詩の下書きのようにも読める。
この断章の集積は、深いところで私に語りかけてくれる。迷っている私に小さな灯りをともしてくれるものもある。そして、ここからカフカの人柄を思うこともできる。
カフカは自分の弱さに甘えて恥じない凡百の作家とは全く異なるので、こんな不思議なことが可能になる。カフカは極めて強靭な精神の持ち主だったと私は思っている。
私がカフカを読み始めたのは今から四十年くらい前、カフカの生誕百年の頃で、それに合わせて日本語の全集が出版されていた。私はそれを次々に読んでいった。カフカは私が熱中して読んだ、最初の外国作家になる。
そして作品とともに、私はフランツ・カフカというひとの生き方にも強く惹かれるようになった。私は、チェコのプラハにあった彼の勤務先から、役所仕事のかたわら、窓の外を眺める彼の様子をよく想像する。その景色は、彼の作品によく出てくる石造りの古い町並みで、そこには雪が降ることもあるし、夏の陽射しが照りつけることもある。職場の窓越しにそれを眺めているカフカを想像することが、私の心の安らぎになった。
カフカは労働者災害保険局の優秀な職員で、彼の居室には様々なひとが訪れていた。仕事に精を出しながらも、彼はそこで私用の手紙を書いたりすることもあった。そして、仕事の用事で彼はあちこちに出張することもあった。その様子は、晩年のカフカに可愛がられたグスタフ・ヤノーホ少年が、後年になって書き残した「カフカとの対話」に生き生きと記録されている。
そんなふうに、勝手ではあるけれど、私はフランツ・カフカという作家の作品とともに、その生活や人生を親しく想像し続けてきた。私は幸いなことに、四十歳で亡くなったカフカよりもずっと長く健康に生きることができた。
だから今、私はカフカが生きた四十年という時間を手に取って眺めることができる。なるほど、カフカが生きた四十年という時間はこれだけの長さだったのだな、と自分の人生に照らし合わせて実感できるようになった、ということである。
四十年の時間でカフカはこれだけの仕事を残したのか、と私は思うし、四十年の人生でこれだけの出会いがあったのか、とふり返ることもできる。もちろん、私はカフカのような大きな仕事を残せるわけではないし、彼のように三度婚約しても結局は独身を通して病死してしまう、という大変な人生を送っているわけでもない。
ただ、私の少年時代から、会ったことも無いのにとても親しく思っていたひとの人生を、こうして手に取って眺めることができる余裕を身につけると、私の人生や、カフカから百年を隔てた今の時代を少しは冷静に見つめることができるようになった。そんな思いがあるのだ。
カフカを読み始めた少年時代、私が彼の人生から学んだことは、天職を職業とする必要は必ずしも無いんだな、ということだった。私が写真で食べる道に進まなかったのはカフカのおかげだと思う。誠実に職業をこなして創作を続けていれば、創作で生計を立てることはできなくとも、たくさんのひとの信頼を得ることができる。そして、少数であっても質の高いひとから評価される。それはとても幸せなことだと思う。
そんなわけで、生前のカフカは職業作家ではなかったけれど、作家として先に世に出た友人、マックス・ブロートの助力で短編集を何冊か出版することができたし、雑誌や新聞に自作を発表することもできた。たくさんの聴衆が集まる朗読会で自作を朗読することもできたし、著名な文学賞も受けている。その上、生前にリルケやヘッセといった大作家から注目されていたことは、どういうわけかあまり知られていないようだ。
要するに、カフカは書き続けることにだけ興味があって、それで生計を立てたり名声を得ることにあまり関心が無かったらしい。少数であっても、自分の作品を正当に評価してくれるひとがいるのだからそれでよいではないか、と思っていた節がある。彼の謙虚で魅力的な人柄がそれを可能にしたのだけれど、少年だった私はそんな生き方に憧れていた。
写真は職業にするべきものではない、ということを私は最初から知っていたし、森山大道さんが私をこんなに理解して気遣って下さるのだから、それで充分ではないか、という思いもあった。写真の他に勉強したいこと、職業にしたいことは他にあった。そのかわり、自由に厳しく一生写真を撮り続けよう。少年だった私はそう決心した。そんな私の決意を森山さんは最大限に尊重して、ずっと厳しく暖かく見守って下さった。もちろん、北斎やわらさんもそうだ。私は感謝するばかりである。
写真は私にとって、生きることの記録である。森山さんにとって写真が人生の記録であり、カフカにとって書くことが人生の記録だったのと同じことではないか、と私は思う。そして、誠実に粋に記録を続けてゆくと、それは時として極上の表現を生む。森山さんもカフカもそれは同じだと思う。そのことも、私は最初から知っていた。戦前に活躍した写真家、安井仲治の写真と人生を知った時にも私はそう思った。
そんなふうに、フランツ・カフカというひとは、森山大道さんと同じくらいの影響で私の人生の在り方を決めたと思う。これはとても幸せなことだった。よほどの才能が無い限り、何かしら興味とやりがいの持てる他の職業をこなしながら、一生をかけて撮り続けてゆくのが正しい写真家の在り方ではないか、というのは私の変わることの無い信念である。
それは、普通に世の中に関わりながら創作を続けることが大事だ、ということでもあるし、市井のひとびとの中に、とても質の高いひとがいることを忘れてはいけない、ということでもある。
ただ、カフカが生きた百年前のプラハが芸術家の理想だった、と私は思わないけれど、今の日本のサラリーマン社会は、そんな生き方を通すにはあまりにも窮屈である。であれば、結局は私のように生きるより今は仕方が無いのかもしれない。それについては、これから、私の人生が続く限り考え続けることになるだろう。それでも、そんな視点を持つことができる、ということ自体が幸せなことなのかもしれない。
こうして、四十年という、カフカの人生と同じ長さの時間を眺めることができるようになって、私も少しは大人になったのだと思う。だから、カフカはとても謙虚で魅力的なひとだったのは間違いないけれど、今の私から見れば、少し子どもに過ぎたのではないか。そんなふうにも思えるのだ。
カフカは同じ女性と二度婚約して二度ともそれを破棄している。やむを得ない事情があったとは言え、相手の女性からすれば、これはずいぶんと迷惑な話である。それでも彼女に限らず、カフカの恋人たちは決して自分から彼の許を去ることは無くて、彼の死後もその思い出を大切に守り続けた。それでも、カフカの側からすれば、これをもう少し何とかすることはできたのではないか、と今の私には思えてならない。
文学か生活か、と二者択一しかないように自分を追い詰めてしまうのがカフカの悪い癖で、もう少し鷹揚に彼女を受け入れて結婚すれば、それなりに幸せに生きられたのではないか、と今の私には思える。それも男の甲斐性だろう。
結婚してからも、カフカは今までどおり役所の仕事を続けて小説を書いて、彼女も仕事を続けて、そしてカフカは両親から精神的に独立する。そんな生き方も可能だったのではないか。結婚後も彼女と恋人のような別居生活をしてもよかったかもしれない。
そんなふうに、可能性はいろいろとあったはずなのに、カフカは自分を変える決断ができずに心身を酷使して、そのあげくに病気になって、恋人や友人や両親や職場とか、あちこちに迷惑をかけて亡くなってしまった。そんな見方もできるだろう。
カフカの遺稿を編集して出版した友人マックス・ブロートは、この仕事に関して無報酬であり、ブロートが出版社から得たお金は、カフカをみとった最後の恋人と、カフカの病気療養のために借金を負ってしまった両親に渡していた、と「カフカ断片集」のあとがきに書かれている。
その意味では、カフカは迷惑な恋人で親不孝な息子だった、ということになるだろう。彼の魅力的な人柄を慕いながらも今の私はそう思う。また、そこまでして友人に編集と出版の労を取らせてしまうのもどうかと思う。遺稿は焼き捨ててくれ、というカフカの有名な遺言に反して、ブロートがそれを世に出すことをカフカはよく知っていたはずである。あるいは、この遺言から、すでに出版した作品は死後も残ってゆくことをカフカは望んでいた、と考えることもできるだろう。
そして、今まで言われてきたように、カフカのお父さんは、息子の文学の仕事にそれほど無理解ではなかったのではないか、と私はずっと思っている。彼は仕事熱心で家族思いの、ごく普通の父親だったのだろう。この年齢になると、私にはカフカのお父さんの立場や気持ちも想像できるのである。彼は、息子が本を出すのを誇らしげに思っていた形跡もある。ただ、カフカが亡くなった後、広く名声を得る前にお父さんも亡くなってしまったので、我々はお父さんの言い分を聞くことができない。これを私は残念に思う。ただ、繰り返しになるけれど、カフカは子どものまま亡くなってしまった、ということは言えると思う。
病気に倒れること無く勇気を出して、脱皮して少し大人になったカフカは、その後いったい何を書いただろう。そんな想像をしてみるのも楽しい。それは、決してカフカというひとに失礼にはならないだろう、という気がする。人生後半の可能性、というわけである。
カフカはそんな後半生を生きることはできなかったけれど、残された作品やフランツ・カフカというひとの魅力や謎と、それに反するような本人のつたなさや幼さを読み解いてゆくのが、私のこれからの仕事につながってゆくのかもしれない。
最後に余談をつけ加えるなら、カフカの死病となった咽頭結核は、無理な生活を続けていた上に菜食主義だった彼が、衛生状態の悪い牛乳を加熱殺菌すること無く飲み続けていたのが原因ではないか、という見解を私は読んだことがある。
カフカには食品衛生の知識は無かったのだろうか。肉食の代わりに、牛乳は非加熱の方が身体に効く、という俗信に惑わされていたのであれば、やはりカフカは今ひとつ幼くて視野が狭かったのではないか、という気がする。私はフランツ・カフカというひとを慕いながらも、彼のそんな側面を少し残念に思う。