暗い部屋から

五月の連休中の一日は、朝から夕方まで暗室に入ってモノクロームのプリント作業をした。

以前は自室の窓に暗幕をかけて、夜にプリント作業をしていたのだけれど、盛岡に移住してからは、私は行きつけの貸し暗室のお世話になることにしている。

作業の前日に、用意しておいた薬品や自前のイーゼルを運び込んでおく。もちろん、持ち込むネガを事前に整理して、どの写真をどんなふうにプリントするか、ということをだいたい決めておく。

そんな前準備をしたうえで、当日は開店と同時に作業を始める。まず、暗室に閉じこもって、すべての灯りを消して光の漏れが無いかチェックするのだけれど、この完全な暗黒の中に身を置くだけで、私の全身に戦慄が走るのである。この甘美な感覚は他では絶対に求められない。ここがあなたの居場所なんだよ、という声がどこかから聞こえてくる。帰ってきた、という不思議な感覚がある。心が安らぐ。

バットに薬品を用意して、引伸機を調整して、赤いセーフライトを点灯して作業を始める。フォーカススコープで画面を拡大すると、ネガの粒子が目に飛び込んでくる。自分の写真の中をさまようような気がして、これも楽しい。

自室で作業していた頃は好きなCDをかけていたけれど、今は沈黙の中で作業をする。それも悪くない。いずれにせよ、作業中に退屈することは無いのだから、音楽は無い方が良いのかもしれない。沈黙の中で作業をしていても、私の頭の中で音楽が鳴ることも無い。

暗室の中にいると、私はすべての雑念から解放されて本当にひとりになることができる。本当にひとりになる、ということは、すべてのものと緩やかにつながっていることを自然に実感できる、ということである。そんな場所は私にとって暗室の中しかあり得ない。映画館の暗闇がそれにあたる、というひともいるのだろうと私は思うけれど、自分の写真と対面できる暗室の方が私にはずっと好ましい。

以前、心の病気の入り口にいた時、私はひとりでフランスを旅したことがあった。あの時もこれに似た感覚を味わったのを憶えている。周りのひとが話すフランス語をとっさに理解できるほどの能力は私には無いので、雑音が一切聞こえてこない。旅している間、私は本当にひとりきりになることができた。そして、何かあって私がつたないフランス語で周りのひとに話しかけると、ひとびとは熱心に私の話を聞こうとしてくれるのである。このことが私を優しく包んでくれた。

今、私はフランスの明るい光の中ではなくて、日本の暗室の赤い光の中で、自分の写真が生まれるのに立ち会うことになる。モノクロームのコントラストに変換された光と影が印画紙に現れる。それを私は慈しみ、所有する。

外界と切り離された暗室の中で作業に熱中していると、この暗室がまるで方舟のように異界を航海しているのではないか、という甘美な錯覚におちいることもある。その収穫として、光と影が刻印されたプリントが私に残ることになる。

この感覚は、少年時代に暗室作業を始めた頃から私にあった。その頃、暗室を貸してくれた恩人の写真屋さんは、「阿部君はずっと暗室から出てこないから生きているかどうか心配になる」といつも気遣ってくれた。暗室の中にいると時間の流れが変わるのである。

今、使わせてもらっている貸し暗室では、印画紙をちょうどひと箱使い切って後片付けを終えると夕方になる段取りである。プリントとバットを洗って干して、翌日に私物を引き取りに行って作業はすべて終りになる。

そんな銀塩モノクロームの暗室作業は、以前なら世の中で割に当たり前の技能であったと私は思うけれど、今、それは以前よりも割高な特殊技能になってしまった。それでも良いではないか、と今の私は考えている。これは、モノクロームの光と影に対面したいひとだけが行う、やや特殊な技法として残ってゆくのだろう。美術の技法のひとつのように。

ところで、今回のタイトルの「暗い部屋から」は、この「東京光画館」でもおなじみの青木さんが以前に開いた個展のタイトルを借りている。私はその頃、新潟市に住んでいたので、青木さんの展覧会にうかがうことはできなかったのだけれど、いただいたハガキのことは今でもよく憶えている。あの時、青木さんはどんな光と影を見いだして所有していたのだろう、と私は今でも想像している。

今回の暗室作業で得たプリントは、秋の私の小個展で、デジタルのカラープリントと一緒にその一部を展示することになると思う。そのプランは、すでに私の頭の中にあるけれど、具体化していくのはこれからである。小個展が終わった後に、これをどう発展させてゆくか。これも私の楽しい課題である。

そして五月の連休が明けて、急に寒気が入ってきたせいもあって、五月晴れの明るい光の中、私はひさしぶりに風邪をひいてしまった。あれこれ疲れが出たみたいだ。この、目の前に広がる明るい光の中で、私は少し休んでいようと思う。

長い年月がかかってしまったけれど、私はようやくこの世間に居場所を見つけたのかもしれない。この、モノクロームのプリントがその一端を私に教えてくれるような気がしている。そんな深い安堵感があるのだ。

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