AIについて門外漢が思うこと

生成AIはとてつもなく電気を消費するものらしい。これから生成AIが普及してゆくと、電力消費量はうなぎのぼりで増加してしまう、とのことである。それ以前に、たとえばグーグルで検索を一回行うと、高度に精製された水がコップ一杯ほど、冷却水として使われて蒸発して消滅してしまう、という話も私は聞いたことがある。

近い将来、電気も水も、AIに食われてしまって、我々の生活は行き詰まってしまうのかもしれない。これ以上、原子力発電所を増やすことはできないし、核のごみを処分できずに、いずれそれは運転ができなくなるだろう。核燃料だって地下資源だから、それがいつまで供給できるのかもよく分からない。再生可能エネルギーだけで今の世の中を維持することは不可能である。そして、きれいな水は世界的に見れば貴重品である。

このことを真剣に考えている政治家がいるようにも私には思えない。

我々はもはやAIの奴隷になってしまっているのかもしれない。資源を浪費して、人間の仕事を奪い、そして必ずしも完璧とは言えない仕事しかできないAIを制御することが、すでに我々にはできなくなってしまっている。

人間がAIに似てきている、という意見も私は聞いたことがある。たしかにそうかもしれない。そう考えてみると、今の世の中のいろんなことがよく理解できるような気がする。人間が生み出したAIは、当然のことながら、人間の能力のすべてを凌駕するものではないだろう。しかし、その欠点を含めて、我々はすでにAIに似てきている。そういうことなのだろうか。

最近の流行りの音楽も小説も、紋切り型の表現が並ぶばかりで聴くに耐えないし読むに耐えない。そこにあるのは人工の世界についての描写ばかりで、自然や肉体についての言及が欠けている。そう思っているのは私ばかりではないようだけれど、でも、今はそんな、まるでAIが作ったような音楽や小説がよく売れているらしい。ならば、流行りの音楽や小説の作者がAIに置き換わってしまうのは、そう遠い未来のことではないのだろう。

世の中に、こんなにたくさんの人間があふれ返っているのであれば、それも仕方の無いことなのだろうか。何かのはずみで大量に発生したバッタの集団は凶暴で単純で、一匹一匹の外見も生態も普段のバッタとは異なるというけれど、集団として見れば、バッタも人間もたいして変わらないのではないか、と私は思っている。

もうあきれ果ててしまっているからこんなことを言わせてもらうけれど、今、世界中で戦争が絶えないのも、人間が増えすぎて豊かになりすぎたせいで狂ってしまったためではないのか、と私には思える。人口を減らして、優秀でやさしい人間を抹殺するために、人間は戦争をするのだろうか。大発生すると共食いを始めるネズミと同じである。

話をもどすと、AIの性能だってそのうちに行き詰まってしまうのではないだろうか。高い代償を払ってそんなものに仕事を任せるよりも、まともな給料を払って人間を雇うほうが良い、安上がりで省資源で経済もよく回る、ということにはならないのだろうか。そして、AIの奴隷のような人間を育てるよりも、まともに生きられる人間を育てる方が得だ、ということに思い至れば良いと思う。考えてみれば、これは当たり前の話である。

ところで、将棋の世界はAIとのつきあい方のモデルになるのではないか、と私は思っているけれど、AIを使って研究することが当たり前になった将棋の世界は、それによって飛躍的に進歩して深化して、もはやAIだけでは勝てない、という凄まじいことになっているらしい。そこでこそ人間の能力が試される、ということなのだろう。AIの予想をくつがえして展開されるトップ棋士たちの対局を、「力戦」と呼ぶらしいけれど、AIをめぐる状況がひとめぐりして、将棋はふたたび人間どうしの熾烈な勝負になった。そう理解して良いのだろうか。

そんな天才たちの世界に限らず、平凡人の世界でも、そう遠くない未来に、ふたたび人間が主人公として帰ってくるといい。私はそう思う。AIなんて、ある面では極めて優秀だけれど、資源を浪費する、人間以上に欠点を抱えた、中毒性を持った道具に過ぎない。そう考えていてはいけないのだろうか。

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