フリードリッヒ・グルダというピアニストがいる。このひとはクラシックの巨匠として知られているけれど、ジャズも上手い。一九三〇年に生まれて二〇〇〇年に亡くなっているということで、二十世紀を代表する名ピアニストとして評価が確立している、とのことである。
私はグルダのクラシックの録音は、ウイーンフィルハーモニー管弦楽団と共演した、ホルスト・シュタイン指揮のベートーヴェンのピアノ協奏曲第五番「皇帝」しか持っていない。でも好きになってよく聴いている。
この音楽のことを私は何も知らないので、こうしてレコードのデータを書き連ねているからといって、私をクラシック音楽のマニアだなんて思わないでほしい。このレコードに録音年月日は記されていないけれど、ジャケットの写真を見る限り、これはグルダが少し年を取ってからの録音のようである。
グルダのジャズの録音も私は一枚持っていて、これは一九五六年にニューヨークのジャズクラブで録音された「アット・バードランド」である。ベース、ドラムスのトリオに管楽器奏者四人を擁した編成で、これも私は大好きである。管楽器の編曲も素敵だし、トリオで演奏される「チュニジアの夜」も、よくスイングしている名演だと思う。ジャズを弾いてもこのひとは本当に上手い。
ただ、この時代にジャズにこんな編曲をほどこして、こんなタッチで弾いたピアニストは他にいなかったのかもしれない。一九五六年と言えば、ビル・エヴァンズもセシル・テイラーもまだ有名ではなかったし、ハービー・ハンコックもチック・コリアもキース・ジャレットもまだ十代の少年だった。我々は、そんな次の時代のジャズを知っているからこそ、この、グルダの音楽を楽しめるのであって、当時、リアルタイムでこれを聴いたひとには、数年後に現れたオーネット・コールマンの音楽には及ばないにせよ、どう聴いていいものやら見当もつかない、未知の音楽に聴こえたのかもしれない。
私が何でこんなことを書いているかというと、書店に積んであったグルダの語り下ろし「俺の人生まるごとスキャンダル」がとても面白いからだ。これは、グルダが五十代から六十代にかけて、音楽や私生活について自由に語った本で、日本では数十年ぶりの復刊ということである。この本に登場するクラシックの巨匠たちは、私にとって名前しか知らない未知のひとたちだけれど、それでもこの本はとても面白い。
グルダは二十歳でクラシックのピアニストとして名声を欲しいままにした天才で、その数年後にはジャズの演奏も始めている。その私生活も奔放と言うしかない。こんな生き方は、グルダのような天才にだけ許されることなのだろう。それは私にもよく分かる。でも、ここで語られている、自由に生きるしかない、というグルダの覚悟から、私のような人間でも、何か学ぶことはあるような気がする。
この本の冒頭で、グルダは自分が誠実な人間だと語っているし、それが嘘ではないことくらい私にも分かる。そして、自分が誤解されるのは仕方が無いんだ、とも語っている。天才であろうがなかろうが、これが自由に生きるしかない人間の覚悟なのだろう。本の中ほどで、俺には劣等感も無いから麻薬に手を出す必要も無い、とも語っている。繰り返しになるけれど、グルダの奔放な音楽活動と私生活が、実は誠実さに裏打ちされたものである、ということくらいは私にも分かるのである。
私はもちろん天才ではないし、今までグルダのような奔放な私生活を送ってきたわけでもない。それでも、世間の多くのひとのように、生涯の大半を一徹な会社員や公務員として過ごすことも私にはできなかった。無理にそれをやろうとして、私は何回か心身の不調をきたして倒れた。私が努力した、と言えるのはそのくらいのことしか無いけれど、結局私にそれはできない。そのことは骨身にしみてよく分かった。グルダの天才と私事を比べるのは不遜だけれど、話を続けることにする。
それよりも、自分に向いた仕事にめぐり会えれば、私はそれを誰よりも上等にこなすことができる、ということが少しずつ分かってきた。結局、私は自由でなければ生きてゆけないのだ。
これは決して格好をつけて言っているのではない。自由に生きるしかない人間には、もちろんそれなりの苦労もあるのだけれど、それをなるべく口にしないのが粋というものだと私は思っている。
そんな人間が世間を生きづらいのは当然のことではあるけれど、それでも、こうして私が生きてこられたということは、私が気づいていないだけのことで、周りのひとが私のそんな特質を充分に理解して認めてくれている、ということなのだろう。
つまり、繰り返しになるけれど、私について、自由でなければこの男は本領を発揮できない、ということに周りのひとたちは気がついているみたいなのだ。そうでなければ、私の表情も陰ってくるから、これは世の中のためにもならない。なるほど、たしかに世の中は捨てたものではない。思い出してみると、今まで、私が気持ちよく仕事ができた職場の上司は皆、そんなふうに私を気遣ってくれた。幸せなことである。
要するに、グルダのような天才が無くとも、穏やかに自由に生きることは可能なのである。もしかしたら、そのことを示すのが、私が生きる理由になるのだろうか。
ただ、天才は皆そうなのだろうと私は思うけれど、グルダは音楽というものを無邪気に信じてはいない。聴衆に感謝してはいるけれど、決して媚を売ったりはしていない。その上で、グルダは誠実に、奔放に、自信を持って生き続けた。信じるに足るものは何も無い、という厳しさもグルダはよく知っていたのだろう。
最後につけ加えるなら、私は自分の人生がいかにありふれたものであるとしても、それがこの世でたったひとつ、唯一無二であることを生まれた時から知っていた。
それでも、私は天才ではないので、私の人生に必要なのは表現ではなくて記録だった、ということになるのである。私が写真を選んだのはそれが理由だったと思う。そして、不思議なことに、粋な心を持って記録を続けてゆくと、それは時として極上の表現を生み出すことがある。このことも私は最初から知っていた。私が写真を続けている理由はこれに尽きると思っている。