たたずむ

今は暗いニュースばかりで本当に嫌になるけれど、「死んで生まれ変わりたい」というせりふを遺して心中を図った有名人の親子がいた。

いい歳をした大人が、本気でそんなことを信じているのだろうか。それが私には分からない。

思い通りに人間は生まれ変わることができる。これが本当なら、今、生きているひとの大多数がみずから死んでしまうのかもしれないし、そもそも、この、欠陥だらけの今の自分がこの世に生まれることも無かったはずである。我々よりもずっと恵まれた立場にいると思われるひとたちが、こんな考え方をする、それが私には本当に分からない。

いつのまにか、事前の承諾も無くこの世に生まれてきた私ではあるけれど、誠実であろうとすれば、この世に居場所を見つけることはできるし、そもそも、未知の存在である私に何ができるのか、それは誰にも分からないことである。

生き続けるのは本当に大変なことだけれど、私の可能性を発見して育ててゆくことが生きる理由になる。それがどれほどささいなことであってもかまわない。ありふれたことであってもかまわない。私はひとりしかいないからである。生まれ変わりなんてあり得ないけれど、何かしら可能性を信じて、あるいはひとのためになることを願って誰もが生き続けている。それを私は信じたい。ささやかな楽しみがそこに生まれるのだろうと思う。

それにしても不思議なものだと私は思う。この世には今、数十億もの「私」が生きているけれど、この私はたったひとりしかいない。だから、私が孤独だというのは単なる勘違いに過ぎないのではないか、という気もする。この私の思いを理解してもらえるだろうか。

もしかしたら、人間の心は、蝶の幼虫がさなぎになるような大転換や試練を何度も経験するのかもしれない。でも、ひとは決してひとりきりではない。それを忘れることが無ければ、我々はこの試練を何とか乗り越えてゆけるのだと私は思っている。

それにしても、今は誰もが長生きできる時代なのに、世の中が硬直していてせわしなさすぎるのではないか、私にはそう思えてならない。

私だっておっかなびっくり生きているから、とても偉そうなことは言えないけれど、立ち止まる時はゆっくり立ち止まる生き方ができたら、それを悠然と生きることができたらどんなに素晴らしいだろう。あこがれの気持ちとともにそんなことを考えている。 「灯を消す方がよく見えることがある」これは河合隼雄さんのエッセイのタイトルだけれど、たしかにそのとおりかもしれない、と今の私は思う。

ただ、灯を消して、はるか遠くにかすかに見えてきた新たな目標、あるいは希望、それがあまりにも巨大なので、今の私はうろたえるしかない。それはおそらく、私に残されているであろう人生後半の時間の大半を費やす必要があるだろうし、それを実現するためには、私は今の私のままでいてはいけない。この程度の心のわだかまりは克服して、再び歩み始めなければならない。時間がかかることなのだから当然である。

もちろん、こんなふうに、迷い苦しんで生きることが無駄だとは思わないし、無駄かどうかは私が決めることでもない。

結局、人間は自分で思うよりも不器用に出来ているから、何かしら辛い思いをしなければ成長できないものらしい。時の流れの中で、因果律に従って考えることしか我々にはできないから、今の私がいったいどこにいるのか、それは分からないことになっている。それが分かれば、こんなに迷い苦しむ必要も無いのだろうと私は思うけれど、でも、時にはそうすることが人間には必要なのかもしれない。

何十年も前に古本屋で見つけたものの、私の本棚に並べたまま、まったく読んでいなかった湯川秀樹の講演録を、何のはずみか初めて読んでみると、これほどのひとでも、人生がいやになることがある、と話の始めに語っている。

ならば、我々のような人間が時折はたたずんでしまいたくなるのも当然ではないか、と私は思う。それを乗り越えるだけの強さも我々には与えられているのだろう。

人間の世界は乱世だけれど、季節は確実にめぐって、新緑はその濃さを増している。自然を信じられれば、それでよいのかもしれない。

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