チャットGPTというAI(人工知能)が実用化されて、急速に普及しているのだそうだ。これは、無理に日本語にすると「自動作文機」とでも呼べばよいのだろうか。
作成したい文章の内容や長さを入力してやると、ほんの短い時間で、指示どおりの、あたかも専門家が作成したように見える文章を作ってくれるらしい。その実例を私も新聞で読んだけれど、まさに舌を巻くような見事な出来栄えである。これを使って、詩を作ることさえ可能らしい。
これでは大方のライターはいずれ失業してしまうだろうし、世の中に出回る文章がいずれ信頼されなくなってしまうだろう、とも思う。AIによって、文章が人間の精神からしぼり出されたものだ、という前提が崩されてしまったのである。
こんな、SFを越えるような事態がこんなに早く現実になるとは私は思ってもみなかった。実現するとしてもあと数十年はかかるだろう、と思っていた。あまりのことに、私は唖然とするばかりである。この「無限通信」だって、チャットGPTが書くことは可能なのだろう、とも思う。
もちろん、この、チャットGPTを始めとするAIをうまく使いこなすことができるひとはいるのだろう。けれども、それはほんの少数のひとに限られるだろう。大方のひとは、その圧倒的な威力に流されて、痴呆化してしまうばかりではないか、と私は恐れている。
こんなふうに、文明が進むと格差は必然的に拡大してしまう。たとえば、スマートフォンは今や誰もが手にしているけれど、その原理を理解して使っているひとは、ほんの一握りではあるまいか、と私は思う。使っているひとと、これを開発して運用させているひととの間にはとてつもない格差がある。文明が進んで広がる格差は、経済だけのことではないと私は考えている。
この、広がるばかりの決定的な格差を埋める方法は無いと私は思うので、人間は進歩し過ぎてほろびてしまうのではないか、と私には思えてならない。統計力学の専門家は、人類はあと三百年くらいでほろびるだろう、そう考えている。ずっと以前にそんな本を読んだことを、私は今も忘れられない。その後は「風の谷のナウシカ」みたいになって、細々と、しかし生気を取りもどして我々の子孫は生き続けるのかもしれない。
話をもどすと、こんな世の中だからこそ、「たましい」という考え方が大切になるのではないだろうか。この「たましい」という考え方は河合隼雄さんの本に出てくる。それは、心よりも倫理よりも深くて、人間が生きることに直接に関わっている、目に見えない存在、と言えばよいだろうか。人殺しが悪いのも、身体を売るのが悪いのも、たましいが傷つくからだ、と河合さんは語っておられた。
我々が文章に感動するのも、芸術や音楽に感動するのも、ひとのまごころに感動するのも、美味しい食べ物や自然の美しさに感動するのも、たましいが関わっているからだ、と考えると納得できる。そして、当然のことではあるけれど、AIにたましいは存在しない。
ところで、私は駒の動かし方もろくに知らない、見るだけの将棋ファンなのだけれど、将棋の世界は、この大問題を数年前に乗り越えているのではないか、と私は思っている。AIがプロ棋士を負かすようになって、将棋の世界は深刻な危機に襲われた。AIは、それまでの将棋の常識を越えた強力な新手を繰り出してくるという。ただし、そこに「たましい」は存在しない。
プロ棋士は、その、AIが提示してくる、強力ではあるけれど無味乾燥な新手を取りこんで、そこにたましいを吹きこんで自分のものにするために、超人的な努力を重ねているのではないだろうか。
そのおかげで、将棋は進化して、あるいは成熟して、私のような、ろくにルールも知らない人間にも、その人間的な凄みが強烈に伝わるようになった。
これは、将棋の世界が我々に教えている大きな教訓ではないか、と私は思っている。もちろん、極力AIを使わない棋士がおられるということも私は聞いている。
何事も、そこまで厳しい営みを続けていれば、門外漢にもその凄みや魅力、あるいは楽しさは伝わる。実は、これが私の未来への希望なのである。AIが有ろうが無かろうが、たましいを込める努力を続けていれば、何も恐れる必要は無いのかもしれない。
最後につけ加えると、これは、亡くなった私の母の教えにも通じているような気がする。
誠心誠意、生き続けていれば、ひとは必ず理解してくれる。だから卑怯な真似はするな。これが私をどれだけ救ってくれたか分からない。そして、このことが自分自身を脱皮させて成長させてくれる。人間を信じて誠実に生きなさい、そういうことなのだと私は思っている。