この「無限通信」が本になるプランが動き出すことになった。何人ものひとの厚意に支えられて、時間をかけて、このプランは進んでゆくと思う。具体的なことはまだ何も決まっていない。
二〇〇〇年の春に「無限通信」を書き始めて、二十年以上、毎月いちども欠かさずに私は「東京光画館」に連載を続けてきたのだから、もう二百七十篇以上の文章が私の後ろに控えていることになる。それを支えてくれている北斎やわらさんに感謝したい。
あの時、写真のコメントを書き始めたら思いがけず長くなってしまって、それを北斎やわらさんに相談すると、「文章専門のコーナーを作るからどんどん書いてほしい」との返事をいただいて、それで「無限通信」の連載が始まったと私は記憶している。その直後、何を書いてもいいから毎月必ず書く。それが北斎やわらさんとの約束になった。その約束を私は守りたかった。
その時、私は心の病気の入り口にいた。それを押してフランスに旅をして、帰国してまもなくの頃だったろうか。旅は楽しかったけれど、その後に病気が進んで、私は心身ともに最悪の状態だった。だから、文章を書くことが心の病気の治療になっていたような気がする。その時も今も、私には写真だけでは足りなかったのだ。主治医の先生にも「書きたいことがあるならどんどん書きなさい。それができるひとは病気が治るのも早いですよ」と励ましていただいた。写真だけでは私の外に出すことができないものを、何とかして私は表現する必要があった。
だから、書き始めた頃は文章が長くて、訳が分からないことが多かったと思う。それでも、心の病気が治癒に向かうにつれて、文章は少しずつ短くなって、毎月だいたい同じ長さに収めるようになって、その内容も分かりやすくなってきたと自分で思う。「最近、阿部さんの文章が分かりやすくなってきたけれど、何か心境の変化があったのですか」というお知らせをいただいたこともあった。
それでも、心の病気が治癒しても、私はこうしてずっと「無限通信」の連載を続けている。書きたいことの一割も書いていない、という気持ちが私にはずっとつきまとっている。だから私は書き続ける。
写真だって、私は撮りたいものの一割も撮ってはいない。それがくやしくて仕方が無いから、私は書き続けるし撮り続ける。
あの時、心の病気が私の心の扉を少し開いてくれた。そのおかげで、まるで尽きない泉のように、私の中からこうしてささやかな文章が毎月あふれ出てくることになった。
写真もそうだけれど、私はこの「無限通信」を自分のものとは思っていない。たまたま私の無意識から湧き出てくるもの、そんなふうに思っている。だから、文章を書くのが他人事のようでとても面白い。それは、こうして目覚めている私のものではないのだから、私自身、後から読み返してみてもとても面白い。
そんな文章の書き方を、私はキース・ジャレットのソロピアノから学んだ。すべてが即興で行われる彼のソロコンサートは、あの有名なレコード「ケルン・コンサート」を思い出してもらえれば分かると思うけれど、冒頭の五つの音だけが演奏前の彼の頭にあって、後は彼がピアノに向かったその時に、その五音をもとに、彼の無意識から音楽があふれ出てくる。私にはそう聴こえる。比べるのは僭越だけれど、私は最初の一行が頭に浮かべば文章は書ける。たしか石川淳が、そんなふうに小説を書くと言っていたのも私は憶えている。
それでも、私の文章はキース・ジャレットのソロのように長くはない。私のもうひとりのカリスマ、ポール・ブレイのソロピアノを私は思い出す。ポール・ブレイのソロも無意識から現れる音楽だと私は思うけれど、それは、キース・ジャレットよりも、目覚めた意識とのせめぎあいを経て音楽になっているような気がする。つまり、ポール・ブレイは無意識から浮かんでくる音を、ピアノの前で厳しく吟味した上で音楽にしているように私には聴こえる。だから、ポール・ブレイのソロは短くて簡潔である。
余談ながら、私は松本市でポール・ブレイのソロコンサートを聴いたけれど、彼はとても楽しそうにピアノを弾いていたのを憶えている。考えてみると、それは私が心の病気に倒れる半年くらい前、「無限通信」を書き始める一年くらい前だったろうか。
話をもどすと、こんなふうに無意識から現れた文章には「言霊」があるように私は思う。今、その言霊が動き出したのである。
「素敵な写真集を三冊も四冊も作ってもらったのに、あたしたちは一体どうしてくれるのよ」と二百七十篇以上もの文章が私に向かって声を上げ始めた。
「エッセイ」はフランス語で男性名詞だけれど、私にとってそれは内なる女性であるような気がする。二百七十人以上の女性がいっせいに声を上げ始めたのだ。この恐ろしさを少しは想像してもらえるだろうか。
だから、この数か月というもの、私はひたすらうろたえている。
生活の合間をみて、ささやかな時間を作って、私は個人的な備忘録のつもりで「無限通信」の連載を二十年以上も続けてきた。けれども、この「東京光画館」は世界中に向かって開かれている、そんな当たり前のことを、私はすっかり忘れていた。
そんな、私にとってプライベートなものでしかなかった「無限通信」が今、オフィシャルなものになろうという意思を示している。それは、筆者である私にとっては、大げさでなくて、天と地がひっくり返るようなとんでもない大事件なのである。この気持ちを分かってもらえるだろうか。
それは、今まで二十年以上も続いた私の心構えが大きく変わる、ということである。養老孟司さんが話しておられたように、自分が変わるというのは、それまでの自分の一部が死ぬということである。変わった後の自分がどんなものなのか、それは変わる前の自分には分からない。これは、とても恐ろしいことである。私が今、ひたすらうろたえているのはそのせいなのだと今、気がついた。
でも、成長とはそういうことのはずである。そのことだけは今の私にもよく分かる。だから、このおののきは今の私の必然である、ということになるだろう。
私の「影」が大きくなりすぎていたのだろうか。気がつかないうちに、それが暴力的になっていたのだろうか。そのことを見極めながら、私は少し心を休めていたいと思う。
もしかしたら、これは心の病気の再発ではないのか、と思えるほど今の私の危機は深いのだけど、いろいろなことが一度に転機を迎えているのだと思う。繰り返しになるけれど、心を休めて、時間をかける覚悟で私は望みたい。時間を味方につけないと、何も見えてこないから。
こうして、私のおののきの正体は分かってきた。これを乗り越えるためには、勇気とひとへの信頼が何よりも大切になる。それも今の私には分かる。
ふたたび話をもどすと、このプランは私ひとりの力でできることではない。それでも、このプランを始めるために、何人かの厚意ある方が集まって下さった。
もちろん、こうして「無限通信」を読んで下さっている、顔の無い読者の皆様にも私は今さらながらではあるけれど、心から感謝したい。
自分のために書き続けて、自分のために公表してきた文章が、実は自分だけのものではなかった。それは、この世界と確実につながって生き続けている。この奇跡を実現してくれたのは、私には顔の見えない、それでもこの世界のどこかに確実におられる、決して少なくない読者のおかげなのだから。
世界が確実に変わり始める。それが私には何よりも嬉しい。この幸せを前にして、いつまでもおののいているのは馬鹿馬鹿しい。私はようやくそのことに気がついた。
今、季節はいつのまにか春になっていて、明るい陽射しが外の世界に降りそそいでいる。もう少し時間をかけて、私は穏やかに元気を取りもどしたいと思っている。すべてはそこから始まるのだろうと思う。