春を待つ、ふたたび

厳しい冬がようやく終わろうとしている。温暖化が進むと気候の変化が極端になる、という話は聞いたことがあるけれど、どうやらそのとおりであるらしい。

私は身も心も硬直していたのだろうか。大切なひとに心ならずも迷惑をかけてしまった。それが本当に辛い。心が痛い。許してもらえるだろうか。

何日か眠れない夜を過ごして、それでも私は他人からいぶかられることが無いくらいには元気に過ごしている。謝罪の気持ちとともに、そのことを私は伝えたい。

少しは私も大人になったのかもしれない。三十年前の私であれば、こんな時、ろくに反省もしないくせに、勝手に熱を出して倒れていた。今思えば身勝手なものである。若かった、と言えばそれまでだけど。

あの時も冬だったろうか。その時も私には何も見えていなかった。事情を知らない何人かの友人から、回復したあなたの方がずっと素敵です、と言われたことも思い出す。周りのひとは口に出さないだけで、私のことはすべてお見通しみたいだ。私は、お釈迦様の手のひらの上で飛び回る孫悟空である。

ひとというのは、世の中というのは恐ろしいものだと改めて私は思う。それは、うそがつけないように出来ているし、物事が見えなくなってしまった私のような人間を見守るだけの度量を備えているわけである。「生かされている」とはこういうことなのだと改めて私は思い知る。

それでも、こうして気を取り直した私の前には、春の気配をたたえた景色が広がっている。何があっても季節はめぐる。感謝して私は生き続ける。

それよりもずっと前に読んだ村上春樹の「ノルウェイの森」は、主人公の男の子の「僕は今どこにいるのだ?」という問いかけで終わっている。主人公が正気に帰って物事がまともに見えるようになるために、そのためだけにあの長い物語が必要だったのだろうか。今の私にはそう思える。

「ノルウェイの森」の翌年に発表された「ダンス・ダンス・ダンス」の主人公は三十代なかばの男性だけど、その冒頭は「ここはどこだ?」「ここは僕の人生なのだ」という、ごく当たり前の問いかけから始まっている。この、言うまでも無いくらい当たり前の問いかけから、この長い物語が始まる。その中で、主人公はいくつかの失敗を重ねながらも、彼なりに誠実に生き続ける。そんな主人公を、周りのひとは信頼し続けてくれる。

・・・文学の話をしていても仕方が無いのだろうか。「ダンス・ダンス・ダンス」には「文学」というあだ名の嫌味な刑事が出てくるのを私は思い出した。

季節がめぐって春が深まれば、冬の間にこわばっていた身体と心がほぐれてくる。「春になると病気も芽吹く」と言っていた町の薬剤師さんがいたけれど、それを避けることができれば、せめて小さなゆううつくらいにとどめておければ、私は新しい景色を見ることができると思う。そうしなければ、大切なひとに申し訳も立たないから。

この辛い「気づき」が無ければ、私は何もできなかった。いい気になって惰性に流されるだけだった。それが今の私には分かる。

惰性で物事を進めてはいけないのだ。惰性で何事かをなし遂げたところで、それは行き止まりの入り口にしかならない。それも今の私には分かる。

それは、私が乗り越えなければならない課題である。たとえば、盛岡しか知らない、盛岡しか写せない地元の写真家、そんなふうに思われたくなければ、私は何をなすべきか。この、膨大な「無限通信」を私の人生にどう位置づけてゆけばよいか。それを私は真剣に考えたことが無かった。この辛い「気づき」が私にそれを教えてくれた。この歳になって言うのも滑稽だけれど、私は大人にならなくてはいけない。

春を迎えようとしているこの季節の中で、私は少しの間、立ち止まって心と身体を休めた方がよいような気がしている。以前、「疲れたら休め」と私に教えてくれたのは、北斎やわらさんである。感謝しなければならない。

それにしても、今は何時なのだろう。ここは何処なのだろう。私は何者なのだろう。そして、これから何処へ向かうのだろう。三十年の時間を経て、私はまたその場所にもどってきた。

そんな思いは、私自身が脱皮して小さな生まれ変わりを始めることの予兆である。私にとって、三十年前の春もそうだった。物事が、世界がクリアにシンプルに見えてくるのである。そして、私の心も身体も鍛え直されて再びこの世界に現れることになる。

生きることが楽しくなる。私の周りのひともそれに気づいてくれる。春を待つ、ふたたび。これで私の今の気持ちが伝わるだろうか。

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