取るに足らないもの

コロナが始まる直前に出た対談集、太田光・山極寿一「「言葉」が暴走する時代の処世術」を時々読み返している。これよりも前に出た「養老孟司 太田光 人生の疑問に答えます」も私は大好きで、よく読み返している。けれども、養老先生との本は書店ではもう見かけなくなってしまった。太田光の対談本はどれも面白いのに、すぐに書店から姿を消してしまうような気がする。

ここで登場する山極先生はゴリラ研究の専門家で、この当時は京都大学の総長で日本学術会議の会長も務めておられたと思う。この対談の後、総長も会長も退任されて、その直後に、前の総理大臣の不祥事、つまり日本学術会議をめぐる騒動が引き起こされた。それはコロナをはさんで起こったことで、世の中の変動はかくも激しい。

「「言葉」が暴走する時代の処世術」の冒頭には太田光の前書きがあって、そこにはスウェーデンの少女の国連での演説が紹介されている。彼女は「あなた方(大人たち)は、その空虚なことばで私の子ども時代の夢を奪いました」「私たちは、大量絶滅の始まりにいるのです」と世界中の大人たちを非難している。それをテレビで見た太田光は、彼女の憎悪に満ちた表情に衝撃を受けた、と述べている。

不思議なことに、太田光の語りは古くならない。それに乗って、対談に入ると山極先生もとても面白い話を聞かせてくれる。この本の終わり近くで、山極先生は「自分の思いどおりにならない結果もすべて楽しんだほうがいい」「愚昧な社会性というのが、人間の本質じゃないかという気がするんですよ」と語っておられる。

私にこんなことを指摘する資格があるのかどうか分からないけれど、その後に起こった学術会議をめぐる騒動で、山極先生がおおやけには怒りを表明されなかった理由がここにあるのかもしれない。その頃、山極先生が「学者なんて弱いものなんだから」とラジオで語っておられたのを私は憶えている。この話はいつかまた別の機会に書きたい。

それはともかくとして、この本の終わり近くで、太田光との「人生は取るに足らないもの」という対談が続く。山極先生は「動物も人間もめまぐるしく生きて死んでいく。仮に地球外に生命体がいて一万年の寿命を持っていたら、人間なんて昆虫のように短命だと思えるでしょう」と発言されている。

人間も昆虫も実はたいして変わらないのかもしれない、と私は思う。一年で一生を終える昆虫、あるいはジュウシチネンゼミという十七年生きる昆虫、彼らと、長くてもせいぜい百年と少ししか生きられない人間にどれだけの違いがあるのだろう。

たとえば、人間よりもずっと短命な蟻は高度な社会生活を営む。農業も牧畜もするし、軍隊を組織して戦争もする。奴隷を使うこともあるらしい。いつまで経っても進歩しない人間と同じである。でも、蟻の頭脳とその寿命の短さでは、人間の存在を認識することは不可能だろう。

前にも書いたことがあるけれど、人間も蟻みたいなものなのかもしれない。だから、人間程度の頭脳と寿命では、認識も理解もできないことがこの宇宙にはあふれているのではないだろうか。

百年程度の人間の寿命では、この宇宙を飛翔することは絶望的であるし、他の恒星系の生命体と交信することもほとんど不可能である。それは、何万年も何十万年も、あるいはそれ以上の寿命を持った知性だけに許される特権のような気がする。そして、彼らの存在を認識するのは人間には不可能だろう。

そんな知性は、時間の尺度が人間とは全く異なるのだから、戦争その他の馬鹿げた行為をすることも無いのだろう、と私は想像する。逆に言えば、この程度の時間の尺度の中で生きるしかない人間は、いつまで経っても賢く平和に生きることはできないのかもしれない。

たった数十年を生きただけで若さを失い、その貴重な時間をほろ苦く思い出さなければならない人間という生き物は、いったい何なのだろう。その上、若いままで成熟するというのは、ごく少数のひとを除いて不可能なことである。たとえばクリフォード・ブラウンとか大谷翔平といった天才のことである。

私はもちろん不完全な人間だけれど、今までの時間を精一杯に生きてきたという自負があるからまだ救われているのだと思う。そして幸いなことに、今は心身ともに健康である。

けれども、古典文学の世界では、世をはかなんで出家してしまう年齢をとうに過ぎてしまった。いくら健康であっても、もはや数十年前と同じことをするわけにはゆかない。私自身、かつて通り過ぎてきたことを繰り返すのに興味が持てなくなってきている。

これが中年の危機だったのだと今の私は思うけれど、たった数十年でこんな転換を迎える人間という生き物は、短命でせっかちな生き物だと今さらながら思い知る。大方の人間は、たった百年程度の人生でさえ、優しく心穏やかに生きることが難しい。

だからと言って私は悲観しているわけではない。それなりにやるべきことは山積しているのだから、それを誠実にこなそうとするしかない。もしかしたら、私が生きていることが、こんな生き方もあるんだ、と他者にアピールすることになるのかもしれない。これが、これからの私の生きる理由になるような気がする。そして、蟻のように短い人生だとしても、そんなにあくせく生きる必要も無い、ということもこの歳になってようやく分かってきた。不思議である。

それにしても、この宇宙には、人間とは比べものにならないほどの知性と寿命を持った生命たちがかわすメッセージがあふれているのかもしれない。この宇宙は、実は明るくて楽しい場所なのかもしれない。でも、我々はそのメッセージを認識することはできないだろう。ならば、蟻であることを自覚して、謙虚に楽しく生きてゆきたいと思う。ようやく訪れた秋の陽射しが、私にそんなことを思わせてくれる。

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