マジメもほどほどに

ユーラシア大陸のかなたで戦争が始まって、それが終わる見通しがまったく立たないまま戦いが続いている。核施設への攻撃がまた始まった。馬鹿もほどほどにしろ、と私は言いたい。

日本ではまたまたコロナがはびこっている。食料品の値上げが相次いでいる。選挙運動の最中に元総理大臣が撃たれて亡くなって、それをきっかけとして政治家と宗教団体の関係が取りざたされている。その間に、十数年前に秋葉原で無差別殺人におよんだ死刑囚が処刑された。そして、もう当たり前になってしまった酷暑がやって来ている。お盆なのに、まるで梅雨末期のような天気が続いたりしている。

ここ最近の外界の出来事をおおざっぱにまとめてみると、そんなふうになるだろうか。すべてはつながっている、と私はまたしても思う。くそマジメな連中の醜態がいよいよあらわになってきた感じである。

戦争をしなければ今の世の中の仕組みはもう維持できない、ということらしい。ぶっこわして、たくさんひとを殺して、苦しめて、そうしなければ、もうお上や金持ちが生き延びることはできないらしい。だからこうして戦争が始まる。彼らにそれを終わらせるつもりは毛頭無い。それで大儲けしているクズどもが世界中にたくさんいるのだろう。

これが二十一世紀、つまり二十世紀のなれの果てである。二十一世紀なんてくだらない。衰えて滅びる以外に何の価値があるのか、と私は思う。

でも、私はべつに悲観しているわけでもない。生きるのが大変なのは、誰にとってもいつの時代であっても同じことだろうし、生きる歓びも楽しみも、それと同じことだろうと私は思うからだ。

人生は催眠術だ、と言ったのはたしかフロイトだったと思うけれど、そんな、催眠術にかかった自分から少しだけ離れてみる技術を身につければ、健康な心身を保って楽しく生きることはできる。要するに、世の中マジメ過ぎるんじゃないの、と私は思う。

日本でいちばんマジメだったのが、撃たれて亡くなった元総理大臣で、ひとの迷惑をかえりみず、見せかけのマジメさを広めようとすると、あんなふうにわけの分からない狂気を呼び寄せて倒れてしまうことになる。

もういいかげんにしてよ、と私は思う。金持ちも貧乏人も、そんなにお金やら政治やらに振り回されてどうするの、と私は思う。お金も政治も結局は妄想に過ぎないではないか。

お金で左右されることなんて、実はたいしたことではないのではないか、と私は思う。お金が無いのがいちばんみじめなことだ、と思いこんでいるひとが世の中にはたくさんいるみたいだけど、私はもっとみじめなことを知っている。いくらお金を積んでも自分の思い通りにはならない、それを思い知らされることの方がはるかにみじめなのである。

これに直面してしまうと生きる理由が無くなってしまうので、大方のひとはそこをお金の問題にすり替えてごまかしているように私には見える。それに、とりあえず生き延びるためであれば、お金の問題なんて結局どうにかなるのではないか。「お金は良い召使いだが悪い主人でもある」ということわざは正しいと思う。

国家の信用が無ければお金は成り立たないから、当たり前のことだけれどお金は政治と同義なのだろう。けれど、お金の裏付けになっている国家の歴史なんて、長くてもせいぜい数千年である。十万年単位の人類の歴史に比べてはるかに短い。

だから、お金も政治も、もちろん国家も戦争も人間の本質とは無関係なのではないか、と私には思えてならない。その程度のものに振り回されて人生を空費するのはあまりにも馬鹿馬鹿しい。それは、この、せわしない文明を維持するための必要悪、くらいの心構えでいても、今の世の中を生き延びることはできるように私は思う。

この酷暑、つまり温暖化も今までの文明の負の遺産、ということになるのだろう。今世紀中には世界人口が減り始める、とのことだけれど、人間も生き物の一種なのだから、これも外界に対する生き物としての自然な反応ではないのだろうか。

戦争が終わらないのは本当に悲しいことだけれど、マジメもほどほどに、と私は言いたくなる。せめて、酷暑が続いている間くらいは休みを取って、のほほんと過ごすのが世の中のためではないだろうか。しつこいようだけど、マジメもほどほどに、というのが今の世の中の教訓かもしれない。

そして、酷暑と大雨のお盆がやって来て、私にもささやかな夏休みがやって来た。それなりに予定を立てていたのだけれど、疲れがどっと出て私は部屋で横になってぼんやり過ごしていたりする。こうして文章をまとめるくらいの気力はもどってきたけれど、そんな、毒にも薬にもならない無為な時間が人間には必要なのだと改めて私は思う。やはり、マジメもほどほどに、ということなのだろう。

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