レクイエム

元総理大臣が選挙の応援演説中に撃たれて亡くなった。容疑者は犯行の動機について、「政治信条の恨みではない」と述べている。

容疑者は手製の銃をこしらえて、明らかな殺意を持って、周到に犯行を計画していたようである。この男は錯乱して凶行に及んだわけではない。それは確かなことらしい。ただ、その動機が私にはいまひとつ理解できない。その恨みが短絡しているような気がしないでもない。

それなのに、メディアの声は「民主主義の破壊」、それしか聞こえてこない。どの党の政治家も、政治学者も、言うことはまったく同じである。それが私には極めて異様に思える。

この事件は本当に「民主主義への挑戦、破壊」なんだろうか。容疑者はそんなことはまったく言っていない。この男は政治的な発言はなにひとつしていないようなのに、そこに注目するひとは誰もいない。これは、闇を抱えた人間の蛮行に過ぎないのではないか。我々に、事実を虚心に観察する姿勢が決定的に欠けているように見える。その方が私は怖い。

今回の事件に限らず、政治家が襲われると、世間は判で押したように、「民主主義の破壊」としか言わない。極めて怠惰だと私は思う。いったい世の中はどうなっているのだろう。私には本当に分からない。凶行が起こると、すぐそこにありふれたレッテルを貼って受け流そうとする。これでは、この種の事件の再発を防ぐこともできないだろう。

「民主主義を守るために、我々は何をするべきか、ひとりひとりが真剣に考える必要がある」とのたまう政治学者もいる。何を今さら馬鹿なことを言っているのだろうか、と私はあきれる。民主主義を守ろうとするならば、選挙の投票に必ず行くこと。自分で考えて投票すること。それしかないではないか。そんなことは偉い先生に言われなくとも、高校生でも知っていることである。世の中、本当に馬鹿じゃなかろうか、と私は心配になる。

そして、死んでしまえば誰でも善人になるのだろうか。撃たれて亡くなった元総理大臣にしても、たくさんの疑惑に包まれていたし、それ以外にも、ろくでもないうわさはたくさんあった。けれども、今、それに言及するひとは誰もいない。蛇足ながら、死んでしまえば俺も善人になれるのかな、とすねていたことが私にもあった。

ユーラシア大陸のかなたで続いている戦争の首謀者と、このひとはずいぶん煩雑に面会していたようだけれど、この選挙期間中、その外交の失敗を突く党も見受けられなかった。みんなが「忖度」している。いったい世の中どうなっているんだろう。私には本当に分からない。

ただ、この元総理大臣の政治姿勢を抜きにしても、このひとに、誰にも逆らえなくなる種類のカリスマがあったのは確かだと思う。そのカリスマは、元総理大臣本人にさえコントロールできないほどに強大なものではなかったのか、という気がする。それがこのひとの不幸だったのかもしれない。

政治家なんてみんなそんなものなのかもしれないけれど、生身の自分を越えたカリスマを背負って生きる、というのは、あまりにも苛酷な人生ではないかと私は思うのだ。このひとは極めて真面目で、しかも政治以外の世界をあまり知らないひとのように私には思えるから、自分に貼りついたカリスマを手に取って眺める余裕もなかったのではないか、と私は想像してしまう。

このひとを私は直に見たことは無いけれど、テレビを通してこのひとが語るのを見るたびに、私は痛ましい思いにとらわれた。このひとは、もっと楽に、あるいは楽しく生きられるのに、ひとの迷惑をかえりみず、空っぽの自分に綺麗な仮面をかぶせて、自分を酷使しているように私には見えたからだ。

そのあげくに体調を崩して二回も総理大臣の職を放り出して、そして元気を取り戻すたびに、再び自分のカリスマを背負って元気そうに飛び回る。一生そんなことを続ける義理も無いはずなのに、その途中で不可解な狂気を呼び寄せて、このひとは倒れてしまった。

その、空っぽのカリスマの不幸を悼むひとが誰も見当たらないのは哀れである。このひとの仕事のおかげでみじめな思いをしたひとはたくさんいて、もしかしたら、私もそのひとりなのかもしれないけれど、それでも私はこのひとを哀れに思う。

その業績、疑惑、あるいは本来やるべきであったのにやらなかったこと、それはこれから長い時間をかけて、それこそ歴史が検証してゆくことになるのだろう。忘れずにそれを見守り続けるより、我々にできることは無いだろう。

ただ、私としては、誰にささげるものなのかいまひとつよく分からないけれど、ささやかな鎮魂歌(レクイエム)を奏でておきたい。

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