フール

今、写真材料の多くが海外のメーカーのOEM製品になっているようで、その入荷が滞りがちになっている。コンテナ船の入港が減っているとのことで、これは戦争の影響である。スーパーで買い物をしていても、食料品が値上がりしていることが実感できる。こんなことも、生活の中に写真がある、ということなのかもしれない。ユーラシア大陸のかなたで続いている戦争は、まだ終わる気配が無い。

私の小写真展で声をかけて下さって、お知り合いになった画家は「私たちは政治家ではないのだから、できるうちにできることをして、作品を後世に残そうとするしかない。それが大切なことを伝える、それを信じるしかない。日本はまだ、辛うじて平和だから」とご自身の個展で私に話して下さった。

それから、「表現は土俵際まで追い詰められなければ生まれない」と言っていたのは、数年前に亡くなった小説家の古井由吉だったと思う。これは、三陸の大地震が起こる直前の発言だったと私は記憶している。このひとには、この未来が見えていたのだと思う。

どんどん話が変わるけれど、私が理想とする写真のあり方は、安井仲治や飯田幸次郎、唐武といったアマチュア写真家が活躍していた戦前の時代である。厳しい時代の中で、才能と意欲のあるアマチュア写真家たちは必死の思いで、しかし楽しんで写真を続けていた。そこから今に残る数々の名作が生まれている。その名作たちは、今の我々にも強く訴え続けている。

そんなわけで、いつの間にか今の時代は、未来に残る名作を生み出すのにふさわしい、厳しくも理想的な状態になっている。私はそう思う。そして、そんなふうに考えると勇気がわく。厳しいのが当たり前、まわりが自堕落なのが当たり前。そうでなければ、意欲としぶとさを兼ね備えた写真家は本領を発揮できない。

それでも、えらそうなことを言ったところで、写真家なんて写真材料の消費者にしか過ぎない。そんなことを思い知らされる昨今ではあるけれど、こんな時代にならなければ、私はそんな当たり前のことにさえ気がつくことができなかった。

写真なんてその程度の、吹けば飛ぶようなものなのかもしれないけれど、それでも、優れた写真は時代を越える。それは作者の力量を越えて、様々なことを雄弁に語り続けるのである。

写真の価値が理解されるには長い時間が必要になる。私自身、小さな写真集を作るようになって、そのことがよく分かった。だから、写真家はアマチュアでなければならないのだと私は思う。写真家は時間を止める力を持った魔法使いだ、と私は書いたことがあるけれど、写真家は時間を越える力を持った魔法使いだ、とも言えるような気がする。

写真を撮りたい、シャッターを押したい、と切実に思うけれど、それでも、その結果として生まれる写真にどんな価値があるのか、当の写真家にもその時には分からない。それを理解するために、写真家はしぶとく生きてゆく必要がある。それはとっても楽しいことであるはずなのだ。

だから、どんな厳しい時代であっても、そんな写真家は夢みる魔法使いなのだと思う。私はカメラを持って歩き続けるだけである。たいていのひとが手に入れる平凡な幸せをいくらか犠牲にした見返りとして、私にはそんな稀な幸せが許されている。そんな気がする。

でも、繰り返しになるけれど、写真材料が無ければ写真家は何もできない。その意味で、写真材料というのは、写真家という特殊な人間のための補助具なのではないか、と私は思うことがある。精神に何か普通でないものを抱えた人間が、写真家として幸せに生きることを可能にする。そのために写真材料が存在する。そんな妄想が私にずっとつきまとっている。

こんなふうに、梅雨空にふさわしいようなややこしいことばかり今の私は考えているけれど、その晴れ間にカメラを持って歩き始めれば、そんな思いはとりあえず離れてゆく。見ろよ青い空、白い雲、そのうち何とかなるだろう、というわけである。

これでは利口なのか馬鹿なのか分からない。でも、「馬鹿」を意味する「フール」という単語には「道化師」という意味もあることを私は思い出した。写真家とは、カメラを持った道化師なのかもしれない。

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