戦争

戦争が始まってしまった。世界を二分する大国の指導者が、気が狂ったとしか思えない侵略戦争に踏み切った。前後の見さかいも無く独断で衝動的に。私にはそう思える。そして、核施設への砲撃は人類史上初めてだそうだ。正気の沙汰とは思えないことが現実に起こっている。この文章を書き始めた今は、停戦交渉はまとまらず、たくさんのひとびとが国を追われ、他国による本格的な経済制裁が行われようとしている。

これが二十一世紀なのだろうか。二十一世紀になっても人間は戦争をする。そんな嘆きさえも、この狂気を前にすると口にするのがはばかられる。人間をやっているのが本当に本当にアホらしくなってしまう。でも、苦しむひとは増え続けている。これは天災ではなくて、狂った指導者がひき起こした人災である。ならば、人間の力で解決できることのはずである。

ひとりの人間の狂気が暴走して、今までに無かったような戦争が始まる。でも、それを簡単に止めることが誰にもできない。そして、その狂気は核施設の砲撃という、信じられない事態にまで進展している。これは誰にも予測できなかった狂気なのだから、我々が無力なのも、もしかしたら当然なのかもしれない。

ただ、この首謀者は、武力と情報統制ですべてが思いどおりになると思いこんでいるようである。しかし、その当初の思惑は外れて、そう簡単に国の全体が占領されることにはなりそうにない。

電撃戦なんてあり得ない。それは今までの戦争と同じだろう。そんな見通しの甘さも変わらない。つまり、彼はアホのヌケ作である。そして、そのことが本人をじわじわと追い詰めてゆくはずである。狂気に走ると、人間はそんなことも分からなくなってしまう。その程度の人間が大国の指導者を務め、人類を滅ぼすほどの強大な権力を行使している。

しかし、その間にも苦しむひとが増えて、たくさんのひとが生命を落とす。コロナも収まらないうちにこんな戦争を始める人間という生き物は何と愚かなものだろうか。神様も見放す人間の愚かさ、である。

そして、私のような、戦争を知らずに生きてきた人間の奥底にも、ユングの言う集合無意識があって、そこには太古から人間が繰り返してきた戦争の記憶が埋もれているのだと思う。そんな、ふだんは忘れ去られている悪夢が、この現実の狂気を前にして、少しずつ姿を現すような気がする。

夜の寝付きが悪くなったり、うなされる程度で済めばどうと言うことも無い。でも、もしかしたら、核兵器が使われるかもしれない。放射能が日本にも飛んでくるかもしれない。そして、我々も飢えるかもしれない。そのうえに、そんな集合無意識に潜む悪夢のかけらが、この戦争の現場から離れたところにいる我々の前に、本当に姿を現したとしたら、いったい何が始まるのだろう。

絶対に明るみに引き出してはならないものが我々の心の奥深くに眠っている。そのくらいのことは私だって知っている。その怪物が動き出す前に、この戦争は終わらせなければならないはずだ。

村上春樹の長編「ねじまき鳥クロニクル」を私は思い出している。主人公の奮闘で、そんな狂気が動き出す直前であの物語は終わる。

けれども、信じられない狂気が本当に動き始めてしまった今の世の中では、そんな狂気が、戦争の現場から離れた、我々の現実と地続きになってしまったのではないだろうか。ならば、逆に、我々は人間の善意を信じてもよいのかもしれない。あるいは、それ以外に我々にできることは無い、と言った方がよいだろうか。

少年時代に実際に戦争の混乱を体験した五木寛之は、今は「マサカの時代」なのだと少し前に語っていた。まさか、と思っていたことが本当に起こる時代、というわけである。たしかに、二度の大地震も、福島の原子力発電所の大事故も、コロナも「まさかの現実化」である。 今、私はぼうぜんとして自分の無力を噛みしめてうろたえるばかりである。ひとの苦しみを想像することしか私にはできない。

ただ、悪夢が現実になってしまった今、つまり狂気の時代、マサカの時代こそ、私のまわりに広がる、一見したところ平凡な景色を凝視することが大切になるような気がする。それは、何の変哲も無いように見えても、今までよりもずっと狂気、あるいは真実に近いところにあるような気がするからだ。

あまりにもささやかではあるけれど、これを希望と言ってよいのか、連帯と言ってよいのか、私にそれを判断することはできない。でも、それしか私にできることは無い。それだけが確かなことである。正気を保って誠実に生き続けること、希望とはそれ以外にあり得ないような気がする。戦争が早く終わってほしい。

なぜか、アンリ・ルソーの有名な絵「戦争」を私は思い出している。パリを訪れた時、あの絵を観ることができてよかったと思う。これもアートの力、その一端なのかもしれない。

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