「日本カメラ」誌が終刊して一年になろうとしている。あれ以来、いろんな写真を毎月見ることができなくなったのはとても淋しいし、写真機材についての情報が入って来なくなったのはやっぱり困る。ネットが紙媒体を完全に代替することはできない、ということが私はこれで嫌というほどよく分かった。
それでも、カメラ雑誌というメディアがもう歴史的な役割を終えていたのではないか、という思いが私の中で強くなってきたのも確かである。では、新しい紙媒体がどんな形を取るべきなのか、それは私にはよく分からない。もしかしたら、分からないのは私だけではないのかもしれない。試行錯誤して模索する時期がしばらく続くのかもしれない。
それにしても、カメラ雑誌の歴史というものを勉強不足の私は知らない。どんな経緯でそれは誕生したのか。それは日本に独特のものなのか。外国にカメラ雑誌、あるいは写真雑誌に相当するものはあるのだろうか。私は本当に何も知らない。
だから、と言うのもおかしな言い方だけど、写真メディアの紙媒体のあり方は、もっと他にもあるのではないか、という気がする。
それから、カメラ雑誌につきものだった月例写真コンテスト、これがどんな経緯で生まれたのか、それも私は知らない。おそらく、これは日本に独特の制度だと思うけれど、正確なところを私は全く知らない。そこにたくさんのひとが集っていたことが、今になってみるとずいぶん不思議にも思える。
月例写真コンテストも、その本体のカメラ雑誌と同様に、歴史的な役割をすでに終えていたような気がする。私もずっと以前にそこを通り過ぎてきた人間ではあるのだけれど、写真はそもそも勝負事ではないし、見るひとによっていくらでも評価が変わるものに無理矢理に順番を付けて雑誌に載せて、賞金を出して得点を競う。それが写真の本質に反するということが今の私にはよく分かる。そもそも、一枚、あるいは数枚の写真にタイトルという言葉を付けて発表すること自体、写真の可能性を大幅に損なうものではないのか。
それを楽しんでやっている連中にいちゃもんをつけなくたっていいじゃないか、と言われそうだけれど、でも、月例写真コンテストに血道を挙げて、その狭い世界から出られなくなってしまって腐っていったひとを私もたくさん見てきた。
写真の才能というものが何なのか、それは私にはいまだによく分からないけれど、その狭い世界で腐ってしまった連中の多くは、私なんかよりもずっと才能があったひとだったと思う。それに、そんなことが写真の醍醐味だと言うのであれば、写真なんかよりもずっと面白いことは世の中にいくらでもあるのではないかと私は思う。
もしかしたら、写真が衰退してしまったのはそのせいもあるんじゃないの、何かが間違っていたんじゃないの、と私は考えてみる。写真は実は、限られたひとしか楽しむことができない、続けることができない、極めて特殊で気難しいメディアかもしれない。
たとえば、将棋の駒の動かし方を覚えるのは誰にでもできる。でも、誰もが対局を楽しむことができるわけではないし、その道を極めることができるひとは限られてくる。それに似ているような気がする。
かつて、カメラ雑誌が隆盛だった頃、たくさんのアマチュアが応募していた月例写真コンテストは確かに面白かった。でも、時代が進んで、写真のそんなあり方がもう許されなくなったのかもしれない。荒木経惟さんも月例写真コンテストを通り過ぎてきたひとだけれど、そんな月例写真コンテストの応募者を「偽アマチュア」と呼んでおられた。言いえて妙だと私は思う。アマチュアとは、安井仲治やラルティーグのような写真家のことを言うはずである。
そんなアマチュアの発表の場としての、あるいは通り過ぎる場所としての新しい紙媒体を私は見てみたい。 写真は実は限られたひとにだけ可能なメディアである。もしそうだとするならば、フィルムが高騰したりするのも当然なのかもしれない。フィルムに限らず、デジタルカメラでさえも、あと十年もすれば新品として手に入れることが難しくなってしまうのではないだろうか。
お金持ちにしかできない道楽、というわけではないのだけれど、それでも、写真を続けようという人間には何かしらの覚悟が必要になる。それだけのことなのだと私は思う。
それでも、フィルムもデジタルも無くなることは無いだろう、と私は楽観している。今から三十年くらい前、音楽の世界ではLPがCDに急速に置き換わってしまって、LPなんかもう完全に無くなってしまう、と言われていたのを私は憶えている。でもLPは今も生きているし、新しい世代のひとたちからもそれは支持されている。
写真も同じことになるのだろうと私は思っている。ただ、今までの、大量生産を前提として成立してきた巨大企業には、これからの写真を支えることがもしかしたら難しくなるのかもしれない。始めに書いたとおり、写真の世界も、時代の変わり目の試行錯誤がしばらく続くのだろう。
いずれにせよ、私は手を変え品を変え写真を撮り続ける。そして、それを楽しみに見て下さるひとがおられる。手探りで楽しむ自由な写真だけがひそやかに広がって後世に残ってゆく。これこそがアマチュア写真家の特権である。この楽しみは何物にも代えがたいのだ。