この文章がおおやけになる頃にはもう終わっているけれど、撃たれて亡くなった元総理大臣の国葬が行われるみたいだ。
亡くなった直後に、国会の議決も経ないでそれが決定されて、その後に明らかになった疑惑のおかげで、国葬に反対する国民の声は予想以上に大きくなっている。でも、もう国葬を止めることはできそうにない。この文章がおおやけになる頃には、いったいどんな反響が現れているのだろう。
国葬なんて、日本ではもう何十年も行われていない。だから、国葬って何だろう、というのが私の正直な感想である。
日本では、政治家や軍人や皇族以外に国葬の礼を受けたひとはいないみたいで、外国のように、世界的な芸術家や芸能人が国葬の礼を受けた歴史があるのなら、またその印象も変わっていたのかもしれない。
政治家や軍人や皇族しか受けたことの無い国葬を数十年ぶりに行うなんて、時代錯誤のように私は思うけれど、そのセレモニーはいったいどんな具合になるのだろう。弔意の強制はしない、と政府は言っているけれど、それは国葬の趣旨と矛盾するような気もする。そこまでして国葬を強行する意図が私にはよく分からない。悪い時代の記憶がよみがえらなければいい、と私は思う。
そして、今回の国葬にかかる費用は数十億円に及ぶのではないか、ということらしい。そのすべてが公費、つまり税金である。
そんな大金を投じる必要があるのか、という声が日増しに高まっていて、私もそう思うけれど、もはやこれを中止することができないのであれば、少しうがった考え方をしてみたい。
この、撃たれて亡くなった元総理大臣は、近年まれにみる「魔」だったのではないか、と考えてみる。「魔王」とまでは言わないけれどね。
空疎な実績ばかりが目立つように思えてならないのに、国政選挙で連勝を続けて、総理大臣の在任期間を更新するほどの長期政権を実現した。持病のために一度その職を放り出したのに、再度そこに返り咲いて、そしてまたしても同じ理由で職を放り出した。その間、自分のわがままを押し通してたくさんのひとを苦しめて傷つけて、何人もの部下を死に追いやった。
このひとは我々のプライドを傷つけたと私は思う。そして、亡くなってからも新たな疑惑が取りざたされている。つまり、このひとはまだ死んでいない。哀れにも、まだこの世をさまよっている。
こんなひとをこの世から送り出すには、もしかしたら、何十億円もかかるセレモニーを強行する必要があるのかもしれない。そこまでしなければ、このひとの魂を鎮めることはできないのかもしれない。
ずっと以前に読んだメルヴィルの名作「白鯨」のラストを私は思い出している。この長大な叙事詩的な長編小説の魅力は多岐に渡るけれど、そのストーリーは、モビー・ディックという白鯨に片足を食いちぎられたエイハブ船長が、捕鯨船ピークォド号に乗って、白鯨への復讐のために世界中の大洋を航海する話である。
長い航海の果てに白鯨に出会ったエイハブ船長は死闘の末、白鯨の返り討ちに遭って死んでゆく。そして、エイハブ船長のピークォド号も沈んでゆくのだけど、その場面が私には忘れられない。沈んでゆくピークォド号は、そのマストに留まっていた海鳥を、そのまま海に引きずりこんで沈んでゆくのである。今、手許に本が無いのでこれは私のうろ覚えだけど、「あたかも天上の何物かを道連れにしなければ沈むことができなかったようであった」というような文がそこに付されていたと思う。
それに似たことが今、起こらないことを私は祈っている。何十億円もかけてお葬式をするのだから、これで成仏してこの世とはきっぱり縁を切ってほしい。そして、新しい世の中を私たちに見せてほしい。
そして、これもずっと以前に読んだ本なので詳しいことはすっかり忘れてしまったけれど、長部日出雄の「津軽世去れ節」のことも私は思い出している。
このタイトルは、暗い世の中で苦しい生活にあえぐ津軽のひとびとが、こんな世の中が去っていってほしい、という願いをこめて「よされ、よされ」と呪文のように唱え続けて、それが長く歌い継がれる民謡になっていった、というような意味だったと私は記憶している。
私も今、その呪文を唱えようと思う。よされ、よされ・・・
時間がかかってもかまわないから、我々にも希望が持てる世の中がやって来てほしい。それを待つために、我々はこの数十年の間、極めて酷薄な形で鍛えられた。それが、今、あの世に送り出されようとしているあの政治家の最大の功績だったのだろうか?