希望

ギリシャ文字のオミクロンなんて私はまったく知らなかった。それが、コロナの新しい変異株のせいで日常会話に普通に登場するようになった。コロナが始まって二年が経つけれど、こんなふうに世の中の変転はあまりにも速い。これを書いている今は、日本国内ではコロナの感染は収まってきているけれど、このオミクロン株がいずれ国内でもはびこるようになるのか、そんなことはもちろん私には判らない。

それでも、この「非常事態」が始まって二年が過ぎて、何かがひとまわりしたな、という印象が私にはある。この二年の間、今まであらわになっていなかったことが白日のもとにさらされて、「なんだ、こんなことだったのか」という感想を持つことが私は多かった。そのために、耐えがたい苦痛と多大な代償を払ったことを忘れるわけにはゆかないけれど、この二年をなんとか生きのびることができた私は今、そんな思いとともに冬を迎え、新しい年に進もうとしている。

そんな、「非常事態の日常」から少しだけ離れて我に帰ってみると、世の中はいつの間にかもう終わっているのではないか、という思いに私はとらわれる。何を今さら言っているんだ、と馬鹿にされそうな気もするけれど、それでも、「世の中の終わり」に気づいていないひとも、ずいぶんたくさんいるような気がする。

何か突発的な大事件が起こって、それとともに今の世の中は破綻して、我々は今の世界から放り出されるのではないか、と少年の頃に私は考えていた。その後、大地震が二回も起こって、その上に無能な為政者やテロが横行して、それでも世の中は一見したところ今までどおりに動いているから、世の中の決定的な破綻はまだやって来ていないのだろう、と何となく私は思っていた。しかし、もうどうしようもないところまで世の中は崩れて破綻している。

今までの積み重ねを喰いつぶして我々は生きているだけで、もう希望の持ちようも無い。以前の総理大臣が「この道しか無いんです」と連呼していたのを私は思い出す。たしかに我々には、この破滅の道を歩むより他に何も無い。 決定的な破綻というものは劇的な形ではやって来ない。そのことを私は学んだと思う。まだ大丈夫、と思っているうちに、気がついた時にはもう取り返しのつかないところまで落ちぶれている。そういうものらしい。

この上なく便利で豊かだけれど、とことん不自由で貧しい。それが今の世の中だと私は思う。そして、この奇妙な世の中は、おそらく当分の間は続く。その間に次の災厄がやって来ることになる。真綿で首を絞められるように、経済がもっともっと悪くなってゆく。

政治や経済はこうあるべきだ、そんな空論を吐く連中はいつの時代もたくさんいるけれど、もうそんなことを論じている場合ではないと私は思う。そんなことは暇な連中にまかせておけばよい。この、破綻してしまった世の中をどう生きてゆけばよいのか。それを論じるひとは極めて少ないけれど、これは一般論で語ることは不可能な事象である。ひとりひとりがしぶとく考え続けるしかない。

そうであれば、しぶとく柔軟に考え続ける能力が今はいちばん大切なのだ、ということになる。それは、特にお金がかかることではないけれど、健康な心身と質素な生活が無ければできないことである。

だから、世の中が破滅していることに気がついたからといって、何も悲観する必要は無い。もしかしたら、世の中というのは破綻して破滅しているのが普通なのかもしれないからだ。それでも人間にはしぶとく生き続ける力がある。ただ、これが人間の賢さなのか愚かさなのか、それは私には判らない。

いずれにしても、人間は長生きしてもせいぜい百年である。一年で死んでしまう虫ケラと大差無いかもしれない。必死に生きている虫たちよりも、我々が上等な社会を作って上等な人生を送っているのか、それさえも怪しい。人間なんてその程度の生き物なのだと私は思う。

ただ、その限られた時間の中で、何かを続けるエネルギーだけは誰にでも与えられている。これをうまく使わない手は無い。このことを希望と言ってよいのならば、いつの時代にも我々には希望が与えられていることになる。

ならば、信じられるものは、自然の美しさと、ひとの善意や笑顔しか無いのだろう。そして、こんな荒野を生きるしか無い我々を支えるのは、美しい思い出と、もうひとつの世界の幻影なのかもしれない。

写真を含めて、アートが生きるために無くてはならないものになる。そんな当たり前のことを誰もが常識としてわきまえる、そんな世の中がようやくやって来るのかもしれない。繰り返しになるけれど、しぶとく楽しく優しく生き続ける必要があるのだ。

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