暑い夏に考えたポートレートのこと

お盆休みに私はこれを書いているけれど、とにかく蒸し暑い。星新一の短いエッセイに、「夏のよさは暑い点にある。からだがぐったりし、頭がぼやけ、精神がだらける。…自然の力による強制休養である」という一節があったのを私はずっと忘れないでいる。

それでも今、何だかよく分からないままオリンピックが終わって、台風が来て、そしてコロナの感染は依然として広がり続けている。

オリンピックも遠くから時々テレビで眺めている限りでは、昔のそれとは違って、ただの大規模なスポーツ大会でしかなかったように私には見える。私は札幌と長野のオリンピックの時、会場の近くに住んでいたので、その頃の記憶が強すぎたのかもしれない。前の東京オリンピックは当時の四コマ版「サザエさん」であれこれその熱気を想像していた。それらは「お祭り」であり「事件」だったのだと今になって私はようやく気がついた。

それでも、今回のオリンピックのおかげで、期間中の報道はそれ一色になってしまった。これはたしかに息抜きには良いとも言えるだろうし、政治家連中の不愉快な言動があまり聞こえてこなくなるのも、たまには良いことなのだろう。

それで思ったのだけれど、テレビで見かける限り、今回のオリンピックを開いた政治家連中の容貌に、最近少しかげりが見えてきたような気がする。技巧をもてあそぶタイプの肖像写真家が彼ら彼女らをモノクロームで撮ったら、さぞかし立派な写真作品ができるのではないか、と私には思えてくる。

もちろん、立派なポートレートが撮れたとしても、彼ら彼女らが空疎な政治家であることに変わりは無いだろう。それをわきまえて考えてみると、ポートレートに限らず、技巧をこらした写真が私には信じられなくなってくる。たかが写真ではないか、写真は素直であることに徹するべきではないか。そんな気がする。

森山大道さんが数年前に「写真はしょせん、スライスした表面。現実は削っても削っても減らない。深堀りしたって面白くないから、表面をきりなく撮っている」と言っておられたのを私は思い出している。しぶとく撮り続けるかわりに、私はもっと気楽になっていい、今、そんなことを私は思う。

私の手許に、古本屋で見つけた「昭和写真全仕事 秋山庄太郎」という写真集があって、ここには秋山庄太郎が撮った昭和の総理大臣、佐藤栄作、福田赳夫、岸信介、田中角栄の、モノクロームによるポートレートが一点ずつ収められている。

これは本当に素晴らしいポートレートだと思うけれど、不思議なことに、どの写真も目が黒くつぶれていて、彼らの眼球による表情や意思が読み取れない写真になっている。しかし、この本に収められている、秋山庄太郎による他のポートレート、タレントや小説家や美術家を撮った写真のほとんどは、どれも目の表情が生き生きと伝わって来るようになっている。

私にはそれが不思議でならないけれど、もしかしたら、秋山庄太郎はそんなところに政治や政治家の本質を見ていたのだろうか。写真が誰かに利用されないように、それでも総理大臣の威厳が伝わるように、秋山庄太郎はあえてこんなふうに撮ったのだろうか。私はそんなふうに考えてみる。それは、優れた技巧と抑制を持った写真家にだけ許される思想であり技術なのだろう。

だから、ポートレートに限らず、無反省に技巧を振り回す写真家やその作品が私は好きになれない。そんな写真は、往々にして誰かに都合良く利用されてしまうし、そんな写真を撮り続けていると、写真家の目はすぐに曇ってしまうだろう。有名人を撮った写真では笹本恒子さん、無名のひとを撮った写真では鬼海弘雄さん、このふたりに私はポートレートの理想を見る。

ひるがえって考えると、私には何の技巧も無い。今さらそれを身につけるつもりも無い。要するに、技巧を振り回した写真なんか私には撮れないのである。素直である以外に私に選択肢は無いのであって、これは大変に幸せなことではないのか。私はそう思っている。

私がローライフレックスTやGRデジタルで撮ったポートレートも少しずつたまってきた。これもいつかまとめてみたい。ただ、気力が充実していなければポートレートは撮れないし、まとめられない。酷暑のせいもあるのかもしれないけれど、もう少し私には時間が必要になると思う。

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