私の「無思想の発見」

これだけコロナがはびこっているのに、オリンピックは強行開催されるようである。こうして受身で表現するのは、強行開催する主体が誰なのかよく分からないからである。いったいどうなっているのだろう。

オリンピックやパラリンピックがこのまま強行開催されたとして、それが終わったこの秋、世の中はどうなっているのだろうか。今、それを誰も語ろうとしないのが恐ろしい。七十数年前の戦争末期によく似ているような気がする。

政治の話はしたくないけれど、この、政府の優柔不断は、ただの無策ではなくて、彼らの思想の表現なのだろうか。養老孟司さんの「無思想の発見」を読み返して私はそんなことを考えてみる。

「思想が無い」というのが「日本の思想」なのだ、というのがこの本の要諦だと私は思うけれど、今までの日本がそれなりにうまくいっていたのは、この「無思想の思想」と「世間」のおかげである、ということになるみたいだ。これに関することは、以前読んだ阿部謹也氏の「「世間」とは何か」にも書いてあったような気がする。

この「無思想の発見」には、太平洋戦争についても言及があって、「戦争は現実だ」というアメリカに対して、「戦争は思想だ」というのが当時の日本の考え方だった、という記述がある。これを今に直せば、まさに「オリンピックは思想だ」というのが今の政府の考え方なのだろう。思想のためなら国民がどうなろうと関係無い、というのも七十数年前と同じである。

でも、「学校の運動会は中止なのに、どうしてオリンピックをやるの」という子どもの思想に答えられる選手や政治家はいるのだろうか。大人の思想や無思想なんて、しょせんこの程度のまやかしである。

きゅうくつなこともあった「世間」がきちんと機能しているうちは、こんな無策は生じなかったのかもしれない。しかし、「無思想の思想」を補完していた「世間」が怪しくなってきて、代わりに「拝金教」が幅をきかすようになってしまうと、こんなふうに、「無思想の思想」に歯止めをかけるものが無くなってしまうのだろうか。

この奇妙な世の中はしばらく続きます、と養老さんは別の場所で数年前に語っておられた。学校を卒業する若者の多くが今までどおり、大企業や役所に就職してゆく。これは、今の世の中が当分続いてゆくことの何よりの証拠でしょう、とも言っておられた。でも、彼ら彼女らの四割くらいが五年も経たずに辞めてしまうのである。それも今に始まったことではないのだけれど。

それでも、これは養老さんも言っておられることだけれど、こんな世の中でも自分なりに精一杯動けばいろんな可能性が開けてくるし、楽しく生きてゆけることも私は知っている。ひとはひとりでは生きていない、ということを大切にすればよいのだと私は思う。

それにしても、こんなふうな、簡単には人間の思いどおりにならない事態に対して、我々はもっと謙虚になった方がよいのではないだろうか。時間をかけてこれを乗り越えることを考えた方がよいのではないだろうか。私はそう思う。

健康に留意すれば誰でも長生きできる世の中なのに、みんな何をこんなに生き急いでいるのだろう。リモート授業だのテレワークだの、あんな不自然で無茶なことをしていないで、一年休んで自習していればよいではないか。それは、今の自分の年齢を見つめ直す絶好の機会になるだろう。我々はこれだけ働いて税金を払っているのだから、そんな生活を支える程度のお金は政府が持っているはずである。

前にも書いたことがあるけれど、ヨーロッパでペストが流行っていた時代、大学生だった天才ニュートンは、首都が封鎖されてしまったので田舎に帰って数年ぶらぶら暮らしたということである。ニュートンの偉大な業績の多くがこの時に生まれたのだそうだ。

もちろん、当時、そんなふうに田舎に帰ってぶらぶら過ごしたひとはニュートンの他にもたくさんいたのだろう。そんなひとびとが何を思っていたのか、それは歴史に残らないので我々には分からない。けれども、その時間は、それぞれの人生にとって決して無駄ではなかったのではないか、と私は想像する。

そして、こんなふうに都会に天変地異が襲った時、ひとびとが帰ることができる田舎がある、というのがどれだけ大切なことなのか、そんなことも私は考えている。

十年前に大震災と大津波がやってきて原子力発電所の事故が起こって、そして今、コロナがはびこる。その間、私は岩手県に住んで、幸いなことにこうして元気で生きていることができる。

「無思想という思想」を補完するのは、「世間」でも「拝金教」でもなくて、「自然」あるいは「田舎」なのではないか。もちろん、養老さんはそんなことはよくわきまえておられるけれど。

コロナの影響と言えば、岩手県一関市にある有名なジャズ喫茶「ベイシー」は昨年三月以来、休業を続けている。店主のインタビューが先日の新聞に出ていて、「五十年もジャズ喫茶をやっていれば、こんなことってあるもんなんですよ。修行だと思って乗り越えるしかないね」というお話だった。

好きな商売を五十年も続けてこられた方にはこんな凄みがある。年寄りの知恵とはこういうことを言うのだろう。

それからもうひとり、海の向こうで活躍する岩手県出身の大谷翔平選手、スポーツがひとを勇気づける、とは彼のような活躍を言うのではないだろうか。

半端な思想よりも、人間の誠実な営みや自然の方がずっと偉大である。これを忘れることなく青空のもとで生きてゆきたい。

これが本当の「無思想」なのだろうか。人生は我々が思うよりもゆっくり流れているし、人間はこの程度の苦難は乗り越えられる。それを忘れずにいようと思う。まるで、すごろくの「一回休み」みたいだ。

私はもう政治のことなんか考えたくない。投票には必ず行くのだから、それで充分なはずである。繰り返しになるけれど、自然を忘れない「無思想」とともに生きてゆきたい。

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