「日本カメラ」への感謝

「日本カメラ」誌がこの五月号で突然に休刊となった。これにともなって月例コンテストも終了し、会社自体も解散してしまう、ということである。

寝耳に水、とはこんなことを言うのだろうか。私はこの雑誌には大変な恩義があるし、これまでずっと、毎月楽しみに読んできたので、まさに身体のどこかに穴が開いたようなさみしい気持ちでいる。

これで、写真の総合デパートのようなカメラ雑誌はすべて姿を消してしまった。もう三十年以上前、「カメラ毎日」の最終号に「カメラ雑誌という文化現象の終わり」というような記事が出ていたのを私は記憶しているけれど、それがついに現実のものになってしまった。

「日本カメラ」の最終号に急にはさみこまれたと思われる、最後の編集後記を読むと、この雑誌の作り手の皆さんも、楽しみながらも、心身ともにずいぶん無理を重ねていたのだな、ということが伝わってくる。どうか心も身体もしばらく休めてもらって、それからまた、写真のために何か新しいことを始めてほしい。私はそう思う。雑誌の制作がハードワークなのは当たり前のことなのかもしれないけれど、それでも、最低限の余裕が無ければ楽しい雑誌を長く作り続けることはできないのではないだろうか。

町の総合デパートが次々に姿を消してしまったように、写真に関することなら何でも取り上げる「カメラ雑誌」はもう不可能なのではないか。あらゆる分野のプロ写真家の作品を始め、カメラ機材の新製品の紹介、撮影技術の指南、中古カメラの発掘、写真論、展覧会の紹介、月例写真コンテスト等々・・・

それらすべてが一冊に凝縮された「日本カメラ」を毎月読むのはとても楽しかったし、それは自分の世界に凝り固まりがちな私の目をいつも開いてくれた。このことに私はとても感謝しているけれど、そんな「カメラ雑誌」のあり方が、もう限界に来ていたのかもしれない。

私は十数年前に終刊したジャズの総合雑誌「スイング・ジャーナル」を思い出している。終刊からしばらくして、その編集部におられた方が「ジャズ・ジャパン」という新しい雑誌を創刊されて、これは現在まで続いている。「スイング・ジャーナル」よりもこれはスリムになった感じがあって好ましい。「日本カメラ」もこんなふうに再生してほしいと私は思っている。どんな新しい媒体ができるのか、これは作り手の腕の見せ所だろう。時間はかかるかもしれないけれど、それを楽しみに待っていたい。

ところで、これが最後の機会だと思うので、「日本カメラ」がどうして私にとって大変な恩義のある雑誌なのか、それを書いておきたい。

八十年代の初め、森山大道さんが「生涯に一度だけ、最初で最後」という条件で、この雑誌の月例コンテストの審査員を一年間担当した。「独断と偏見で写真を見ます。だから独断と偏見で撮った写真を送ってきて下さい」という森山さんの言葉に、少年だった私は、このひとなら私のやろうとしていることを理解してくれるかもしれない、という勝手な妄想を抱いてしまったのである。その頃の私は、新刊の森山さんの写真集「光と影」でしか森山さんの名前を知らなかった。このことは、私は以前にも書いたことがある。

その月例コンテストで、森山さんは私の写真を二回もトップに選んで下さった。大げさでなく、それが私の人生を決めたのだと私は今でも思っている。そして、その二枚の写真に対して、森山さんはとても深くて誠実な批評を書いて下さった。それが私には本当に嬉しかった。

つまり、「日本カメラ」が森山さんとの出会いの場を作って下さったのである。それを担当された編集者、前田利昭氏(後の編集長)にとっても、森山さんの起用は冒険だったらしいことを私はずっと後になって知ることになる。

ともあれ、その出会いが後の「写真時代」誌の森山大道教室「フォトセッション」につながり、この「東京光画館」につながってゆくことになる。あの「日本カメラ」での出会いの場は、もしかしたら私のためにだけ用意されていたのではないか。そんなふうにさえ私には思えることがある。だから、それを担当された前田氏も私の人生の大恩人なのである。前田氏とは面識は無いけれど、ずっと後まで私の名前を憶えていて下さったことは知っている。

ただ、今や伝説的になった森山さん担当の月例コンテストに参加して、他の応募者の入選作を見て勉強して、それは私にとってかけがえの無い経験になったけれど、森山さんが一度きりでこの世界から身を引かれた理由が、私には今になって身にしみるように分かるような気がする。

私の写真は森山さんしか理解してはくれないのだろう、と当時の私は考えて、その後、月例コンテストや順番をつける展覧会に出品することを止めてしまった。でも、それでよかったのだと今の私はしみじみ思う。

写真は勝負事ではないし、誠意をこめて撮っていれば、どんな写真でも平等である。そんな写真は生きることそのものである。私はそれを「フォトセッション」で学んだ。だから、月例コンテストは勉強の場であり通り過ぎる場所である。それを悟った私は本当に幸せだったと思う。 写真で食べられなくともいいから、生前のフランツ・カフカのように、目のあるひとからは高く評価されて、何か他の、興味の持てる仕事をしながら写真を続けたい、そんな人生を歩みたい。当時から今にいたるまで、私はずっとそう考えて、そのとおりに生きてきた。そして、森山さんは、そんな私を今に至るまでずっと暖かく厳しく見守って下さった。これは本当に幸せなことだと私は感謝している。

一度だけ書かせてもらうけれど、「日本カメラ」の月例コンテストで金賞を二回もらう、というのはアマチュア写真愛好家の一生の目標である。ほとんどのひとは、それも果たせずに終わるのである。それを私は高校生の頃にクリアしてしまった。

そして、写真と関係の無い大学に進み、大学の勉強も抜かり無く続けながら、「フォトセッション」に参加して、私は森山さんに毎月写真を見てもらった。

森山さんに定期的に自分の写真を見てもらって、森山さんにいろいろと可愛がっていただく、というのは、真剣に写真をやりたい、というひとにとって、大変な憧れであることは言うまでも無い。それも私は大学を出るまでにクリアしてしまった。

そこまで行ってしまったら、後はもう、自分の足で歩き始める他に無い。世の中の空気を思い切り吸って、自分の判断で生きてゆくしかないのである。それは当時の私にもよく分かっていた。私は本当に幸せだった。そんな私を森山さんも、北斎やわらさんや青木さんを始めとする「フォトセッション」のメンバーも暖かく見守って下さった。そして、毎月読む「日本カメラ」がその支えになってくれた。

僭越ではあるけれど、将棋の世界では、駒の動かし方を覚えて一年くらいでアマチュアのトップに行くくらいでなければプロの才能は無い、ということが言われているらしい。この言葉がいつも私の中で引っ掛かっている。それをクリアしてしまった少数のひとは、誰にも理解されない孤独な道をひとりで歩いてゆかなくてはならない。また、そう生きることが、他者に対しても自分に対しても最大の礼儀になる。誠実とはそういうことなのだろう。私はそう思っている。

そんな私の道しるべになってくれた「日本カメラ」に感謝をささげるとともに、近い将来、スリムになってどこかから生まれ変わって現れてくれることを、私は心から願っている。紙媒体で、毎月未知の写真に出会いたい。写真を愛するたくさんのひとの温もりを感じていたいのである。

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