桜の季節、ふたたび

朝、目が覚めた時に「俺は今、夢をみている」と思うことがある。ここが現実であることをわきまえたうえで、それでも目覚めたこの世界が圧倒的な夢であることを私は悟る。それはとても不思議で幸せな目覚めである。

眠っている間にみる夢は短い断片に過ぎないし、それはあまり快いとは言えない代物である。それよりも、この現実の方がはるかに不可思議であるし、そこにこうして私が生きていることが本当に不思議なことに思える。そして、私はこの世界で今日も生きてゆくことができる。私を深いところで理解してくれるひとがこの世に少なからずいて下さる。これを幸せと言わずに何と言うべきか。

私が撮り続けている写真が、夢のような現実を生きる橋渡しをしてくれる。この写真の群れは、私の意思によって生まれたこの世界の複写である。つまり、写真は私と世界の境い目にあって、私と世界を仲立ちする力を持っている。これこそが写真の幸せなのだと私は思う。

過去を追うな、未来を願うな、現在を懸命に生きよ。釈尊もキリストもそう語ったということだけれど、それが幸せの糸口だということが今の私には分かる。そして、死のことなんか分からない。生きているのがどういうことなのか、それが分からないのだから、というようなことを語ったのは孔子だったと思うけれど、それも私にはよく分かる。

この世は巨大な夢なのだから、その中で繰り広げられる人生が何か、そんなことが私に分かるわけが無い。精一杯に生きてゆけばそれでよいのだろうと私は思う。

それにしても、「これは夢だ」と自覚している夢をみるひとは本当にいるのだろうか。私は一度も無い。だから、この世は夢かもしれない、と自覚して生きるのにはいくらかの訓練が必要になるような気がする。そのへんのところを間違えると、カフカの「変身」の主人公のように、夢から覚めたら巨大な虫に変身していた自分を発見する、そんな気持ちで生きてゆくことになりかねない。

でも、私はこれでもう過去の思い出とともに目覚める必要が無くなった。懐かしい思い出が、ようやくそれ自体で完結して本当に過去のものになった。そして、現実という巨大な夢の中で精一杯に生きてゆけば、おのずから未来はやってくる。だから、私はもう未来を願う必要も無いだろう。これを私は長い間、望んできたような気がする。

ところで、物理学には「現在」という特別な点は現れない、だから「現在」は心理学の問題ではないか、と物理学者は語るらしい。「現在」を科学的に記述できないというのであれば、それはまさに夢ではないか、と私は思う。繰り返しになるけれど、夢を全力で生きることしか人間には許されていないし、それで人間は幸せに満たされる。そうなると、眠っている間にみる夢とも気持ちよくおつきあいできるような気がしてくる。

そんなわけで、ひさしぶりに長い夢をみてから目覚めると、その夢の最後の景色がとても印象深く記憶されている。それにどんな意味があるのか私には分からないけれど、忘れられない名画のように、その景色は私を護り、謎をかけてくる。とても不思議だ。

そして今、盛岡でも桜の花が咲き始めた。桜の花に無常感や憂いを感じることは無いけれど、季節がめぐってそれを目にすると、私はきまって夢とか時間とか、そんなことを考えているみたいだ。でも、そこには穏やかな幸せがある。花の下で馬鹿騒ぎをするひとがいなくなってしまったから、今年は特にそう思うのかもしれない。

最後に写真の話になるけれど、私がリコーGRデジタル(初代モデル)を手に入れてから十年になる。このカメラで撮った盛岡の写真が、いつのまにか一万五千枚くらいたまっている。これを、少しずつ小さな写真集にまとめてみたいと思う。最初の一冊の完成がいつになるかまだ分からない。それでも、素敵な理解者の助力でこのプランは動き出している。

「東京光画館」で見ていただいた写真が、ふたたびドレスアップされて、新しい形をまとって現れる。このことが、私を新しい地平に導いてくれるのだと思う。咲き始めた桜の花や、長い夢の最後に出てきた美しい景色と、それはどこかでつながっているのかもしれない。

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