空っぽ

「ねえ、何もないことがこの世を支えてるんじゃないかしら。」これは私が二十代の頃、いちばん辛かった時期に読んでいた加賀乙彦の長編小説「宣告」の終わりに出て来る言葉である。処刑を明日に控えた死刑囚と対話する若き精神科医、つまり作者の分身がそう語る。

今に至るまで、この言葉がずいぶんと私を支えてくれたように思う。何かしら頼りない気持ちにとらわれた時、この言葉は不思議に私を鎮めてくれた。けれども、この頼りなさと安心を知ることが、大人になる、ということなのかもしれない。美しい景色の前に立つのに何かしら似ている。

何も無い。そして空っぽだからこそ我々は自由で幸せである。この幸せをおとしめることは誰にもできない。だから、何も恐れる必要は無い。あるいは、恐れさえも我々の味方である。こうして自由に存在しているだけで我々はこの上無く幸せなのだから、それ以上を望むのはただの欲にしか過ぎないのかもしれない。

それが分かってしまえば、もはや書くことなど何も無くなってしまうのだけど、それでも何かを書きたい、という衝動は消えることが無い。もちろん、写真を撮りたい、生き続けたい、という衝動は、私の意思とは無関係に、まさに泉のように湧き出てくる。時に「生きるのが辛い」と思っても、そんな私の感情など問題にならないのである。

空っぽだからこそ楽しい。この宇宙の制度なんか、もちろん世間の制度なんか、すべてかりそめに過ぎない。それをわきまえて静かに楽しく生きればよい。それだけのことである。そんなふうにして年齢を重ねてゆくのは何だか楽しそうである。

もうひとつ、一般向けの数学の解説書にとても面白いことが書いてあったのを私は憶えている。何も無いところから、どうやって自然数を定義するか、という話だったと思う。

これはフォン・ノイマンという天才数学者の業績らしいのだけど、何も無いということを使って、そこから自然数を生み出すことができる、というのである。つまり、何も無いことは0である。そして、内容が0である空集合を1と定義する。これで、無から1という有が生まれる。0と1が生まれれば、そこから無限に数を生み出すことができる。

つまり、無から有を生み出して、そこからこの世界を作り出すことができる、ということになる。あるいは、何も無いことは、考え方によって0にも1にもなる。これは、当たり前なのかもしれないけれど、私にはとても不思議だ。結局、この世界を構成している要素は無によって支えられている。つまり空っぽだ、ということになる。こんなに愉快で美しいことが他にあるだろうか。

仏教で言う「無」と「空」は0と1に対応する、という話を私は聞いたこともある。0と1はデジタルの基本だから、仏教はもしかしたらデジタルな教えなのだろうか。このへんのところは、その道の専門家である北斎やわらさんにぜひうかがってみたいところである。面白い話が聞けそうである。

あまり関係無いことだけれど、小松左京の「おしゃべりな訪問者」の最後に「色即是空」について、「つまりカラーテレビのブラウン管の中はがらんどうの真空だ、てえ事でしょう。」というせりふがある。これも何だか面白い。

話はどんどん変わるけれど、優れた音楽家は自身を空っぽにして、つまり自身を楽器の一部にして、それを豊かに鳴らすひとなのだと私は思っている。アルバート・アイラーのサックスを聴いていると私は特にそう思う。管楽器だけでなくて、歌手はもちろんすべての楽器を奏でる音楽家がそうなのだと私は思う。優れたピアニストもベーシストも、もちろんドラマーも、自身の身体が楽器とともに豊かに鳴っている。

それに比べると、写真家はやはり気楽である。素直にシャッターを押しさえすれば、誰でも空っぽで豊かな表現をものにすることができるからだ。カメラがすべてをやってくれるのである。

豊饒な空っぽの表現が、あまりにもたやすく手に入ってしまうので、写真家はとまどってしまうのだろうか。だからこそ写真家は困難な道を歩むことになる。それが写真の楽しさでもあるのだけれど、写真とはつくづく奇妙なメディアであると私はいまさらながら感嘆する。

そんな私の思惑とは無関係に季節が進んで、今、冬が終わって春がやって来る。私はキャンディーズの名曲「春一番」を思い出したりしている。

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