ナマケモノになりなさい

「怠け者になりなさい」というのは水木しげるが遺した名言だったと思うけれど、ここでは動物のナマケモノのことを考えてみたい。

私が少年時代によく読んでいた動物図鑑を引っぱり出して調べてみると、ナマケモノは南米の密林に住む哺乳類の一種で、それほど大きくないおとなしい草食動物のようである。一生を木の上で過ごし、一日に十八時間から二十時間も眠っている、とのことである。寿命は十二年ほどで、個体数も多く繁栄している動物であるらしい。

だいぶ以前に読んだ筒井康隆の「私説博物誌」にもナマケモノの項目があったと私は記憶している。密林の木は生長が速いので、近くにある葉を食べてしまっても、眠っている間に次の葉が生えてくるので、移動しなくとも食物には困らない、と書いてあったような気がする。残念ながら私はナマケモノの実物を見たことは無いけれど、見た目もなかなか愛らしい。

それにしても、一日に十八時間以上、つまり四分の三以上の時間を眠って過ごす人生とはいったいどんなものなのだろうか。ナマケモノがどの程度の知能を持っているのか私は知らないけれど、イヌやネコも夢をみるそうだから、おそらくナマケモノも夢をみるのではないかと私は想像する。

ナマケモノは眠るために生まれてくる。あるいは夢をみるために生まれてくる。私はそんなふうに考えてみたい。彼らにとって、眠りや夢こそが現実であって、一日に数時間しか体験しない覚醒した「現実」は、食事を取ったりして眠りや夢を支えるための、言わば腰かけの時間でしかないのかもしれない。現実はまぼろしに過ぎない、ということをナマケモノはよく理解しているのだろうと私は思う。

彼らがどんな夢をみているのか我々には知るよしも無いけれど、この愛らしい生き物が悪夢をみるようにも私には思えない。彼らがひたすら眠り、夢の世界をまさに美しい現実として生きているのであれば、これほど素晴らしい人生はあるまい、と私はうらやましく思うばかりである。我々人間が「人生は夢」と言うと、そこにはかなしさやはかなさがともなうけれど、夢と現実が逆転している彼らにしてみれば、そこには明るい平和と充実があるばかりだろう。

浮世のしがらみからも、因果律からも自由な夢の世界を生きる彼らの人生が、私は本当にうらやましい。「人生は苦」という言葉を噛みしめて生きてゆくしかない我々人間は、本当に不自由で哀れだと私は思う。昔、「写真時代」誌に「動物も植物も人間は馬鹿だと思っているだろう」というような言葉が載っていたのを私は今でも憶えている。

要するに、目覚めている時の意識ばかりを尊重して、万物の霊長とうぬぼれている我々文明人は、実は大馬鹿なのではないか。これに気がつくだけでも我々の人生はずいぶんと愉快になる。小松左京の短編に「われわれの時代は、あまりにも理性を過大評価しているのかも知れんな」という言葉があったことも私は思い出す。

ちまたでは、人工知能だAIだと騒ぐひとが多いけれど、はたして人工知能に無意識はあるのだろうか。人工知能やデジタル技術が、生身の人間の意識や理性の上っ面をなぞったものに過ぎないのであれば、それは氷山の一角を模写したものでしかないわけで、いくら効率がよくとも、それは結局のところ生身の人間やアナログ技術の敵ではないだろう。巨大な無意識を持たない人口知能なんて、結局は魂の無いただの道具でしかないはずだ。

我々は、誰もが持っているこの肉体と、これまで積み上げてきた文化に絶対の自信を持ってよいのだと私は断言する。

ただ、魂を持たない純粋な道具は中毒性を持つ。人工知能やデジタル技術が恐ろしいのはそこだけではないか、という気がする。

話をナマケモノにもどすと、我々人間の睡眠時間は一日に八時間くらいである。人生の三分の一は眠って過ごすのだから、安眠できれば目覚めている間に辛いことがあっても、我々は何とか人生を生き抜くことができる。そう考えることも、もちろん大きな救いにはなるけれど、それではナマケモノに申し訳が立たない。

人生の三分の二を目覚めて生きるしかない我々人間は、そんな「苦」から目をそむけること無く、努めて楽しくこの現実を生きようとするより仕方が無い。

せめて、人間も人生の三分の二くらいを眠って生きる動物であったとしたならば、もっと世の中は平和で人生は楽しいものになるのではないだろうか。長く眠る分だけ寿命が延びるというのもいいかもしれない。

そうなれば、世の中の進歩はもう少し穏やかでやさしいものになるだろう。凶悪犯罪も戦争も過労死も貧困も人口爆発も無くなると私は思う。誰もが毎日、夢の世界で究極の自由を生きるのなら、この世の不条理や苦しさ悲しさはたいした障害では無くなる。

ナマケモノほど長く眠ることはできなくとも、なぜ、我々文明人は眠りや無意識を大切にできないのだろうか。

もしかしたら、縄文人はそんな夢の世界を大切にして生きていたのではないだろうか。縄文土器の不思議な文様や造形を眺めていると私はそう思う。言葉にならないこの文様や造形は、夢の言葉なのかもしれない。我々には読み取れない不思議な言葉を使って、彼らは豊かな夢の世界を生きていた。そんなふうに私は想像する。

そして、我が身にひるがえって考えてみると、写真とは目覚めたまま、つまりこの現実とかかわったままで、豊かな夢をみるためのメディアなのかもしれない。それは、はかないものでもかなしいものでもないのである。

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