幻惑

岩手県立美術館で開かれていた本城直季の大規模な個展を観た。本城直季のあの写真は、巨大なプリントで見ると、雑誌や写真集で見るのとはまったく違った。

その、巨大なプリントを含めて、二百点もの彼の写真の森に足を踏み入れた時、私は強烈な幻惑を体験した。たとえが悪くて申し訳ないけれど、それはまるで車に酔った時のような、肉体的な本当の目まいである。

その目まいは観覧中にしだいに治まってきたのだけれど、そこで落ち着きを取り戻した私は、これはまるで本城直季の眼球に入りこんでしまったみたいだ、という感想を持った。

本城直季というひとには世界がこんなふうに見えている。それを写真で素直に表現すると、こんなふうな、巨大な幻惑をもたらす写真の森ができる。私はそう思う。言うまでもないことかもしれないけれど、これは本城直季の世界観の表現なのである。もしかしたら、本城直季は、どんな写真家もおよばない、強烈なリアリストなのではないだろうか。写真にこんな凄まじいことができる。それを私は教えられた。

本城直季は一九七八年の生まれとのことだけど、今、朝のテレビでその頃のNHKの朝ドラの再放送がかかっているみたいだ。私もそれをちらりと見たけれど、あの、シンプルでどことなく懐かしい気配が、どういうわけか私に本城直季の写真を思わせる。

ひとは誰でも無意識のうちに、自分が生まれた時代の気配を記憶しているものだ、と言うけれど、本城直季よりも年長で、あの朝ドラが放映されていた頃に少年だった私は、この言葉をまたしても噛みしめている。

本城直季の写真が、空間的に広大な広がりを持っていることを私は今回の展示で深く納得したけれど、はたしてあの写真の森は、時間的にはどんな広がりを持っているのだろう。

本城直季が、この現実とは別の位相で「現在」を表現していることは私にもよく分かった。ただ、あの写真の森は、はたして未来を向いているのか、あるいは過去を向いているのか、それが私にはよく分からない。けれども、私がまったく知らないやり方で、過去の気配を、あの写真の森は持ち合わせている。不思議なことに、それは決して感傷的ではないのだ。

会場の出口近くには、本城直季が三陸の大津波の後に被災地を撮った写真がいくつも展示されている。本城直季の優しい、しかし強烈なリアリストぶりがここによく示されている。

そして最後には、直接に震災とは関係の無い、本城直季が今年になって撮り下ろした岩手県内の写真が展示されている。その中には、盛岡市街を上空から俯瞰した写真があった。

この写真に写された場所を私は毎週、休日になるとカメラを持って歩いている。まさにここは私のホームグラウンドである。この写真をながめていると、私自身が本城直季の写真の登場人物になってしまったような幻惑を覚える。これもまた彼の写真の強烈な力だと思う。私はこの町のどの現実の中で写真を撮っているのだろう。治まっていた目まいがまたやってきた。

私はこれからも、今までどおりこの町で写真を撮り続ける。もちろん、私は本城直季のような写真を撮ることはできない。私が素直に撮れば、今のような私の写真になる。それ以外に私にできることは無い。

それでも、繰り返しになるけれど、私はどの現実の中で写真を撮っているのだろう。現実は無数に存在する。このことを強烈に実感させられたのはこれが初めてである。

  比べるのは僭越かもしれないけれど、私だって決して少なくない数の写真をこの町で撮っている。そして、私はその写真をこの町でささやかな形で展示することができる。それをこの町の多くのひとたちが気に入って下さる。

これは本当に嬉しいことだけれど、このことが空間的に時間的にどんな広がりを持っているのだろう。私の写真が、たくさんの位相を持つこの現実を示唆することはできるのだろうか。そしてそれは、盛岡以外で撮った私の他の写真とどんな関係があるのだろう。そんなことを考えてみたのはこれが初めてである。

私の写真の撮り方が変わるわけではないけれど、これは私にとって新しい発見なのだと思う。もしかしたら、私は新たな幻惑を持ってこの町を写すことができるかもしれない。そのきっかけを作ってくれた本城直季氏に感謝したい。

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