大河小説の効用、みたび

日本生まれのイギリス作家カズオ・イシグロがノーベル文学賞を受ける数年前に発表した長編小説「忘れられた巨人」を私が(もちろん翻訳で)読んだのは、このひとがノーベル賞を受けた少し後だった。

時間をかけて、私はこの長編を通読することができたのだけど、正直に言って、その時の私にはこの小説の良さも面白さも分からなかった。それでも、いつかまた読み返すことがあるかもしれない。そんな気がしたので、私はこの本を手放さずに押入れの奥にしまっておいた。

先日、図書館でカズオ・イシグロのガイドブックが目についたので、私はこれを借りて読んでみた。カズオ・イシグロというひとは、五歳の時に家族とともにイギリスに渡って、その後作家として名を成した三十歳近くになるまで、一度も日本の土を踏むことが無かった、といったことがその本で紹介されていた。このひとが十代か二十代の頃に海外を放浪した時も、あえて日本を訪れることはしなかった、とのことである。根なし草としての自分を自覚している、というような本人の発言が、このガイドブックで紹介されていたと思う。

そんなわけで何となく気になって、私は数年ぶりで「忘れられた巨人」を再読した。最初の時よりも面白く読めたとは思うけれど、それでも、私がこの小説を充分に理解して楽しんだとはとても言えない。

難解、というわけではないのだけれど、面白いんだか面白くないんだか私にはよく分からない。それでも最後まで読ませる力がこの小説にはあるし、最初に読んだ時よりも、この小説をおおっていた霧が、いくらか晴れてきたような印象はある。

これは、小説と言うよりも、詩の言葉で書かれた長編叙事詩なのだろうか、と私は思う。もしかしたら、これから数年の時間をおいて、私はまた「忘れられた巨人」を読み返すことになるのかもしれない。

ノーベル文学賞を受ける小説はこういうものなのだろうか。思い出してみると、私はこの作品の他にはアルベール・カミュの「ペスト」くらいしかノーベル文学賞を受けた小説を読んだことが無い。カミュはデビュー作の「異邦人」よりも「ペスト」の方がノーベル賞委員会に高く評価されたらしい。

この「ペスト」も私は十年くらいの間隔を取って再読したことがある。コロナ騒ぎでこの作品が再び注目されるより前のことである。

その時の印象も、「忘れられた巨人」を再読した時と似ていた。私には「ペスト」よりも「異邦人」の方がずっと面白くて切実に感じられた。余談ながら、誰かが書いていたように、「異邦人」の窪田啓作氏の訳文は、文章の最高のお手本のひとつでもある。

ノーベル文学賞というのは、どうやら「異邦人」のような面白さよりも、「ペスト」や「忘れられた巨人」のような、私にとっては簡単に理解できない、それでも読者を離さない力を持った、叙事詩のような作品に与えられるような気がする。この傾向を「社会性」と呼ぶひともいるのだろう。

ノーベル文学賞を受けた詩作品なら、私はイタリアの詩人サルヴァトーレ・クァジーモドの詩を翻訳で少し読んだことがある。もちろん、私がこれを充分に理解しているとはとても言えない。それでも、私は同時代のイタリアの詩人ジュゼッペ・ウンガレッティの方が好みである。詩についても、ノーベル文学賞について同じような傾向があるのだろうか。

こんなふうにノーベル文学賞を受けた作品を読みかじってみて、私にもノーベル文学賞受賞作を読むコツが少し身についてきたような気がする。要するに、小説や詩の読み方にいくらか深みというか余裕が出てきたみたいで、これは悪くない影響だと思う。

そんなわけで調子に乗って、私は「忘れられた巨人」の巻末に広告が出ていたトルコの作家、オルハン・パムクというひとの「わたしの名は赤」という長い小説を読み始めた。このひとも、この作品を発表した後の二〇〇六年にノーベル文学賞を受けている。現代トルコ文学なんて私は初めて読む。

これは「忘れられた巨人」や「ペスト」と違って、最初からとても面白い。今の私には長編伝奇小説のように思えるけれど、それだけではない深みがきっとここにはあるのだろう。これは各章が短くて、夜に寝床で少しずつ読むのに向いている。読者を離さない技術をこの作家も持ち合わせているのは確かである。そのことが、何か大切なことを伝えているのだという気がする。

こんなふうに、すぐに理解することはできなくとも、底知れない深みのあるフィクションに身をゆだねる時間を持たなければ、今の世の中を生き抜くことはできないのではないか。私にはそんな気がして仕方が無い。今ほど物語が必要な時代は無いのではないか。それが私の思いである。

映画も演劇ももちろん必要だと思う。けれども、物語世界の造形を読者に完全にゆだねてしまったうえで、読者を別世界に連れていってしまう、そんな超一流の長編小説の凄みが我々を支える。

このオルハン・パムクの「わたしの名は赤」も、以前の私だったら全く読むことができなかったと思う。読書体験も変化して成長するものだと私は納得する。読み進むのが楽しみである。ひとつの小説の中で、いくつもの魅力的な別世界を読者に体験させる、その凄さである。

それにつれて、私を取り巻く世界も少しずつ変わってゆく。超一流の物語にはそれだけの力がある。そのことだけは私もよく知っている。今は、そんなふうにして生き延びる時代ではないのか、と私は思う。

[ BACK TO HOME ]