図書館で葛飾北斎の研究書、諏訪春雄著「北斎の謎を解く」という本が目についたので、借りてきてぱらぱらと読み始めている。北斎の作品は、数年前、長野県小布施町の「北斎館」を訪れた時にたくさん見ることができた。余談ながら、そこから「東京光画館」オーナーの北斎やわらさんにおみやげを送ったことを憶えている。やわらさんがとても喜んでくれたのが嬉しかった。
その時、私が葛飾北斎の作品に圧倒されたのはもちろんのことだけれど、あの時代に九十歳の長寿を保ち、死の直前まで旺盛な制作を続けたこと、それはまるでピカソみたいだけど、北斎が八十歳を過ぎてから、鉄道も自動車も無い時代に、あの急峻な軽井沢の碓氷峠(だと思う)を越えて、小布施を何度も訪れていたことにも私は心底驚いた。「画狂老人」という北斎の画号のひとつには、そんな凄みが含まれていることを私は知った。
創作を天命と自覚した人間は、それほどまでの、すさまじい執着を持ってしぶとく生き続けなくてはならない。それはもちろん楽しいことでもあるけれど、その凄みと覚悟を私はその時にかいま見たのだと思う。「東京光画館」のやわらさんが「北斎」を名乗っているのも、それで私は納得がいった。
話を「北斎の謎を解く」にもどすと、この本は葛飾北斎の生涯を簡単にたどった後、北斎の生活や制作を支えた信仰や思想について詳しく考察している。北斎に大きな影響を与えたらしい、荘子の思想についても詳しく紹介している。私はこの本を、荘子の解説書として読んでいるように思う。
この本には、「荘子」に出てくる「真人」について、「真人は真の知をもっている人である。…不遇な状況にあっても運命にさからわず、成功してもおごることなく、何事にも策略をめぐらさない。・・・生をよろこぶことを知らず、死をにくむことも知らない。生まれ出てもよろこばず、死ぬこともこばまない。平然と死に、平然と生まれてくる。生のはじめの死の世界をわすれることなく、いそいで生の終わりをもとめることもない。…」とある。
長い引用になってしまったけれど、そんな心構えと、これと相反するように見える、葛飾北斎のようなすさまじい執着を持って生きることが、創作を天命と自覚する人間の理想なのだろうか。
この、「真人」の解説の中にある、「生をよろこぶことを知らず」という言葉に私は感動する。なぜ、人生を、生活をことさらに楽しまなければならないのか、それが私にはずっと分からなかったからだ。
「人生を楽しもう」というのは今の世の中でいちばんうける言葉だと思うけれど、これは我々を縛って脅迫する悪魔のささやきのように私には思えてならない。
思うように生きるように努力することができれば、それで充分ではないか。なぜ、その上に人生を楽しむ必要があるのか、私には分からないのだ。そんな、屋上屋を重ねるような無駄な努力は、無用な苦を呼ぶだけのことではないのか。
健康を保ちながら生活できる。友人とおつきあいをして、本を読んだり音楽を聴いたり旅をしたり、そして写真が撮れればそれで私は充分に幸せである。その写真をこうしてたくさんの方が見て下さる。
その上、なぜ人生を楽しまなければならないのだろう。それは私にとって無用な欲である。ようやく私はそう断言することができる。そんな欲に踊らされていると、きっと死ぬのが怖くなってくるのだろうという気がする。心の病気も、もしかしたらそんなところから始まるのかもしれない。
大げさではあるけれど、人生を楽しもうとしなくていいんだ、と思いなしてから、私は生きるのが少し楽になったと思う。そして、時間が流れるのが少しゆるやかになったような気がする。
今まで生きてきて、私にだって楽しいことはもちろんたくさんあったけれど、世間並みの平凡な幸せというものに私は少し縁遠かったかもしれない。それに対して私は焼けつくような憧れをずっと持ち続けているし、その憧れを捨てる必要も無い。そのことは私にもよく分かっている。
けれども、その憧れが私の心身を苦しめるようでは行き過ぎだろうと思う。もちろん、私がこれまで出会ってきた、あまり他に例が無いかもしれない楽しさや不思議な幸せと、そんな平凡な幸せをてんびんにかける必要も無い。
「生をよろこぶことを知らず」、これを私は、自分がめぐり会えなかった幸せに過度に憧れる必要は無い、と解釈してみる。一生それにめぐり会えなくともそれはそれでよい。そう思いなすだけで、生きることはずいぶんと楽になる。
あるひとから無言のうちに学んだ「幸せであることにどん欲でありなさい」という教えとこれは矛盾するものではないと私は思う。そして、「幸せではなくて歓喜」、岡本太郎もミシェル・ペトルチアーニもそんな意味のことを言っていた。私はそれを思い出した。
なるほど、「幸せ」よりも「歓喜」の方がずっと広大で風通しが良くて寛容な言葉だろう。「幸せ」はしばしば排他的であるけれど、「歓喜」はすべてを包み込んで、そして消えてしまうことが無い。「幸せ」は閉じているけれど、「歓喜」は宇宙の普遍に通じている。そんな気がする。それが分かれば、この宇宙のかりそめの制度を越えて、我々は自由に生きることができる。それは、ゆるやかで深い幸せである。
青空のもとで歩き続ける、あの幸せな感覚がそれに通じている。このことに気がつくことができたのなら、こうして毎日が果てしなく繰り返されてゆくことを、私は素直に受け入れられるようになるだろう。それは私にとって何よりの幸せであり喜びである。平然と生きてゆくしなやかさである。