青空からの伝言

我々人間を含む多細胞生物を構成する細胞が、遺伝子にあらかじめ与えられていたプログラムの発現で死んでゆく現象「アポトーシス」について解説した本を読んだことを私は思い出している。

我々の手や足に指があるのも、指と指の間にあった細胞がそれによって自動的に死んでいったおかげであるということだし、遺伝子に回復不能な損傷を負った細胞が死んでゆくことによって、全体の調和が保たれる。これは多細胞生物にとって極めて重要な機能とのことである。そして、ここにこそ「死」の起源があるらしい。

ここで間違えてはいけないことは、だからと言って我々ひとりひとりの自殺や殺人が許されるものでは絶対にない、ということだろう。この大前提を踏まえたうえで、あれこれ考えてみるのはとても面白い。

別の本には、生命は宇宙の歴史を進めるために存在する、という途方も無い見解が述べられていた。だから、人間は誰でも生きているだけでこの宇宙の歴史に参加していることになる、ということである。無為な人生なんてあり得ない。だから、繰り返しになるけれど、自殺や殺人は悪なのである。

生命は、遺伝子が次の世代へ伝えられるための乗り物に過ぎない、という学説が流行ったことがあって、私はこれが嫌いだった。でも、このふたつの見解をよく考えてみると、この不愉快な「遺伝子の乗り物」説を乗り越えることができるような気がする。

もうひとつ、人間に限って考えてみても、「血筋」というものはいずれ絶えるように出来ているのではないだろうか。昔の殿様の家系図を見ていると私はそんな思いに駆られる。三百年近く続いた徳川将軍家も、ずっと家康の直系が続いたわけではなかった。それはいずれ消えてゆかなければ、何か悪いものばかりが後世に伝えられることになるのかもしれない。

あれこれ思いつくままに私は書き連ねてみたけれど、それで何が言いたいのかというと、結局、人生は自分のものなのだ、ということがここから明らかになるのではないか。そして、そう思って生きるのが、宇宙の歴史に正しく参加することになるのかもしれない。大げさではあるけれど、そんな気がする。

子孫を残すのも自由。残さないのも自由。その場合は、与えられた遺伝子を自分の代で使い切って人生を終える覚悟と努力が必要だろう。あるいは、この遺伝子を残したくない、と考えて楽しく深く生きるのもそのひとの自由かもしれない。

他人や社会に尽くす人生を送るのも自由、自分のために生きるのも自由。悪をなさない限り、このふたつに優劣をつけることはできないだろう。あるいは、どちらでも結局は同じことなのかもしれない。

要するに、誠実に生き延びる覚悟を持っていれば、人間は限りなく自由なのではないか。

衰える気配を見せないコロナウイルスは、いずれ我々の遺伝子に入りこんで寄生するようになるのかもしれない。我々の遺伝子には、過去に感染したウイルスの遺伝子の残骸がたくさん含まれている、という知見があった。その残骸が本当に無意味なものなのか、それはまだ分からない、とも書いてあった。

衰退に向かって進んでいるとしか思えないこの世の中を、私は好きになることはできないけれど、それでも、もしかしたら、今の我々には分からない何かの働きがそこにはあるのかもしれない。そう考えてみると、いたずらに今の世の中を悲観する資格は私には無いことになる。誠実に生き延びる覚悟を決めるしか私にできることは無いのだろう。

どんなことにでも意味がある。すべてが無意味に思えるということは、すべてに意味があるというのと同じだ。その時、意味という言葉さえもが意味を失って、この世界そのものが生命を持って豊かに立ち現れる。そして、写真家はその歓びを目撃して記録することができる。

前にも書いたことがあるけれど、写真家はカメラという機械に全面的に依存しているとは言え、時間を止めるという神にも悪魔にも許されていない、特権的な力をふるう魔法使いである。

その歓びを味わい尽くすように生きてゆけたら、と私は思う。この歓びは私を越えて広がってゆく。そして、そんな決意を持つ人間は必ず幸せな人生を送る。しなやかでありたいと思う。そのことを私はこの年頭に確認しておきたい。

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