さようならは魔法の言葉

さようならは魔法の言葉、という言いまわしを思いついて、私はあれこれ考え続けている。 以前、職場で出席したつまらない講演会で、講師が「ありがとうは魔法の言葉」と言っていたのがあまりにも陳腐で、私はかえってこれを忘れることができなかった。その場逃れの言葉として「ありがとう」を乱発するのは、言葉への冒涜であろうという気がする。言葉に魂をこめずに乱用すると、それは必ず自分に返ってくる。その恐ろしさを知らないひとが少なくないように私は思う。

その陳腐な言いまわしは、私の中でいつのまにか「さようならは魔法の言葉」に変わった。「さようなら」という言葉が私は好きではない。だから、これを乱発することも私は無い。ただ、もう忘れてしまいたい思い出、あるいは縁を切ってしまいたい友人知人のことを、たとえば寝床の中で思い出してしまうのはとても苦しい。

もうやめてくれ、もう私から離れてくれ、そんな思いにかられてどれだけ辛い夜を過ごしたことか。どれだけ悪い夢をみたことか。過去を忘れられない、過去と縁を切ることができない、これも生きる苦しみのひとつであろうと私は思う。

そんな時、私は「さようならは魔法の言葉」という自家製の言いまわしを思い出してみる。そして、呪文のように「さようなら、さようなら」と頭の中で繰り返す。そうするとずいぶん気持ちが楽になる。少なくとも悪い夢にうなされることは無くなる。

我々の前には現在しか存在しない。要するに、未来の実相は誰にも分からない。そして、過去はひとりひとりの中にある幻影でしかない。そして、過去が残していった遺物は、過去を考えるための手がかりでしかない。もちろん、写真もそれに含まれる。

思い出は思い出としてもう完結させてしまいたい。楽しかったことも、もう思い出したくない。私の無意識が、そこで今も生きているのだからそれで充分である。ましてや、思い出の中のひとが今どうしているか、そんなことは知りたくない。みんな元気で幸せに生きているんだろうな、というところで止めておきたい。これがいちばん幸せな生き方ではないのか、と今の私は思う。

そんな私の気持ちを知らずに連絡を寄こしたりする古い知人がわずらわしい。無神経な年賀状も見たくない。おまえ、それが分からないくらい鈍い人間になっちまったのかよ、と私は自分の中で毒づいている。ひとは変わる。私だってその例外ではない。今の私はもうその頃の私ではないのだ。そんなこともこいつは分からないのだろうか。不愉快きわまりない。

それに比べると、完結してしまった古い思い出の何と甘美なことか。それは、もう私ひとりだけのものなのだ。そこでは、楽しかったことだけではなくて、苦しかったことも、悲しかったことも、恥ずかしかったことも、すべてが懐かしい。これこそが歳を取る醍醐味だろうと思う。そして、この懐かしさが私に新しい出会いを用意してくれる。未来を開いてくれるのである。

時代はいつもひりひりしているものだ、戻りたい時代なんて無い、と言っていたのは篠山紀信だったと思う。私もやっとこの言葉を理解することができる。美しい思い出を残したとしても、その時代が無条件によかったわけではない。こんな簡単なことを私はようやく理解することができる。我々は過去に戻ることはできないし、おかしな言い方だけど、思い出以外のものを思い出すこともできないのだ。

ずっと以前、私がうつ病に苦しんでいた頃、毎日が容赦無く過ぎ去って、美しい思い出が少しずつ遠ざかってゆくのが私には耐えがたい苦痛だった。でも、いくら時間が経っても美しい思い出は遠くならない。それはいつも、昨日のことのように新鮮である。これに気がついた時から私は回復の道をたどり始めたのだと思う。つまり、歳を取って大人になることを私は受け入れることができるようになったのだと思う。

私の前には、今も全力で生き続けて変転を重ねている素敵な友人たちがいる。新しく出会うひとたちがいる。私の中では、宝石のような美しい思い出が少しずつ増えてゆく。そして、外の世界には美しい光が降りそそいでいる。なるほど、孤独というものは悪くない。

さようならは魔法の言葉。悪い夢にうなされそうになった時、私はまたこれを思い出すことにしよう。

何度でも生まれ変わる。これは森山大道さんを取材した映画につけられた言葉だったと思う。この言葉もとても魅力的だ。これで、私は歳を取るのが怖くなくなったような気がしている。

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