まさに今、写真の力

新型肺炎の流行の第一波が(日本では)収まり始めているらしい、とのことで、「新しい日常」という口当たりのよい文句を、それこそウイルスのようにまき散らす連中が目立ってきた。

何が「新しい日常」だ、何を今さら、と私は思う。ならば、この病気が流行る前の日常がはたしてまともだったのだろうか。今、私を含めたすべてのひとが、心身に大変な負荷をかけられて生きている。そして、これからの生活が立ち行かなくなるひとがたくさんおられる。そのことも私は承知しているつもりだ。それでも、こんな口当たりのよい文句を私は好きになることはできない。

今を何とか生き延びて、本来の常識をとり戻せばよいのだと私は思う。ウイルスに対して集団の免疫を獲得してしまえば、世の中の風景も少しずつ「日常」に帰ってゆくような気がする。だから、「新しい日常」なんて文句を私は聞きたくない。

たとえば、オンラインが必ずしも信頼に足るものでないことは、給付金の申請手続きの混乱を見れば分かるし、世の中がデジタル一辺倒にならないことは、今でもLPレコードや銀塩写真が生き続けていることを見れば分かる。

目もくらむ速度で走っていた乗り物が急ブレーキをかけられれば、乗っていた誰もがよろめく。今はそれだけのことなのだろう。よろめいても転倒しないこと。外の景色に目を配る余裕を持つこと。私にはそのくらいのことしか思いつけない。

でも、それこそ目に見えないところで、今、我々の感受性は急激に鍛えられて洗練されつつあるのではないか。新聞に毎週掲載される、無名の作者による短歌や俳句がすごい。「日本カメラ」誌の月例コンテストの写真がすごい。そのレベルが以前よりも格段に上がっている。忘れ難い作品、立ち止まって考えさせられる作品が本当に多い。私も負けるわけにはゆかない。発表する場所が違っているとしても、私もそんな発信者のひとりでありたい。

この試練のおかげで、きっと私の感受性も同時に鍛えられているのだと思う。目からウロコが落ちる、とはこんなことを言うのかもしれない。

他人の声が以前よりも私はよく聞こえるようになってきたかもしれない。試練がひとを鋭敏にして謙虚にする。思い出してみると、それは私にとって初めての経験ではない。なるほど、試練はきつければきついほど後になって役に立つ。これは村上春樹の「騎士団長殺し」に出て来る言葉である。

表現というのは土俵際まで追い詰められなければ生まれない、と言ったのは今年の初めに亡くなった古井由吉だったと思う。今から十年くらい前、大震災の直前に、この小説家はそう言っていた。このひとには最初から分かっていたのだろう。

めめしくなってはいけない、と私は思う。ただし、弱音を吐いたり甘えることはめめしくなることと必ずしも同義ではない。これを理解しないひとが多いように私は思う。それぞれのやり方で、今は精いっぱいハードボイルドに生きてゆきたい。それはべつに難しいことではなくて、静かに生きてゆければそれでよいのではないだろうか。

こんな時、短歌や俳句、そしてもちろん写真というのは生きるための強力な武器になるのではないか。なぜなら、短歌や俳句や写真は誰にでもできることだからだ。

たくさんのひとびとが、それぞれのやり方で、技術の有無にかかわらず、自由に表現して発信することができる。そのことが、我々が脱皮して生きのびてゆくのを助けてくれるのではないか。

だから、写真の力を今こそ見極めたい。今、次々に発表される新作ばかりでなくて、歴史に残っている過去の名作、そして自身が撮った過去の写真を今こそ見直したい。そこに、今しか学べない貴重な教訓があるような気がする。今しか受け取ることができないメッセージがあるような気がする。

今から百年前、大正デモクラシーの頃にはスペイン風邪が世界的に大流行して、たくさんのひとが亡くなっている。でも、私の狭い理解の範囲では、この時代のひとは決してめめしくなかったと思う。

この時代を駆け抜けるように生きて逝ってしまった伊藤野枝の文章は私を鞭打ち励ます。そして、内田百閒のこの時代の随筆にこんなせりふが出てくる。

「ここの人はみんな割合に達者ですね」

「死ぬ程生きてる人がいないからさ」

百年前の先人たちに我々は負けるわけにはゆかない。気楽にしぶとく生き抜きたい。我々にも何か素晴らしいものを生み出す力があることを信じたい。今、新緑の季節に私はそう思う。

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