音楽から写真へ、思い出の中から

昨年暮れに私は佐渡裕指揮のシエナ・ウインド・オーケストラのコンサートを聴きに出かけた。彼らは超一流のプロのブラスバンドである。このバンドの二枚組のベスト盤CDを私は持っていて、これをとても気に入っているのでいちど彼らの演奏を生で聴いてみたかった。

もう何十年も前、中学生の頃、私は学校のブラスバンド部でトランペットを吹いていた。まったく上手くなることができなくて、トランペットを吹くのは中学校を卒業するのと同時に止めてしまったけれど、それでも楽器を鳴らすのは本当に楽しくて、あの三年間は私の人生のまさに黄金時代だった。そして、ちょうどトランペットを止める頃に私は写真を始めることになった。

「お前にトランペットは似合わないよ」とその後たくさんのひとに言われてきたし、今の私もそう思う。トランペットは目立ちたがり屋で派手好きなひとに向いた楽器である。もっと地味な楽器をやっていればよかったと今の私は思うけれど、その頃の私はどういうわけかトランペット以外の楽器には興味が持てなかった。上手くなれなかったのにこれもなぜなのか、いまだによく分からない。

私はシエナ・ウインド・オーケストラの演奏を三階席から見下ろして聴いていたのだけれど、上から見るとバンドの様子はかえってよく見える。演奏中に、舞台の上のメンバーの間に音が満ちているのが私には目に見える。彼らの歓びも、私には自分のことのように分かるような気がした。私はとても嬉しかった。

その歓びはプロのバンドでも中学生のバンドでも同じである。仲間が出している音に自分の音が加わって、それが周りにも伝わってゆく。その体験が、その後何十年も私を支えてくれている。プロの音楽家であるオーケストラのメンバーをうらやましく思うのは当然のことだけど、それでも、何十年も前の私の体験も決して過去のものではない。それは現在のものとして今でも私の中にある。それを噛みしめることができたのが本当に嬉しかった。

以前にも書いたことがあるけれど、あの音は今も私のすぐそばにある。そして、私を護り続けてくれている。あの音は、姿を変えて私が撮る写真の中にあるのではないか。そんな気さえする。不思議な気配に姿を変えたあの音が、私の写真に生命を与えてくれているのかもしれない。そしてそれが私の写真を、私自身を護り続けている。

「トランペットを吹いているよりも、写真をやっている方が阿部さん、ずっと楽しそうですね」ブラスバンド部の後輩が何気なく口にしたその言葉が、私を写真に向かわせたような気もする。もちろん、その頃、私は自分のカメラも持っていなかった。でも、私にとって写真は最初からとても自然で、そして楽しいものだった。だから、写真は、それを職業にすることを目指すのにはあまりにも惜しい。そんな気がした。

実際、よい音で楽器を鳴らす困難に比べれば、写真を撮るのはあまりにもたやすい行為であるように私には思えた。そして、たくさんのひとが私の撮る写真を不思議がってくれる。それが、私が体験した初めての写真の歓びだったと思う。これはもちろんとても楽しいことで、この楽しさは今にいたるまで私の中でずっと続いている。そのおかげで「写真は楽しくなければならない」そのことが私にはよく分かるのである。これは、ささやかであっても、私が音楽の楽しさと困難を通り過ぎてきたからこそ分かることなのかもしれない。

だから、写真なんて他の世界で挫折してから転がりこめばよいもののように私には思えてならない。そうでなければ、写真の凄さも楽しさも本当には分からないのではないか。私にはそう思える。

音楽の困難に比べれば写真なんてたやすいものだ、と私は今までずっと自分に言いきかせてきた。そのおかげで、私は怖いもの知らずの子どものままでずっと写真を続けてこられたのだと思う。怖いもの知らずとは本当に恐ろしいものだと今頃になって私は思い知る。

それでも、トランペットの才能を持って生まれたひとは、初めて楽器を手にしたその時から素敵な音を出す。それは、私が三年間練習しても出すことができなかった音である。天才トランペッター、クリフォード・ブラウンのレコードを聴いてプロになる決心をした、という有名トランペッターの話を私は聞いたことがあるけれど、私はクリフォード・ブラウンのレコードを聴いた時、トランペットを止めてよかった、とほっとしたのを憶えている。

そのトランペッターと面識のあるひとにこの話をした時、「森山大道の写真を見て、やってみたいと思うあなただってたいしたものよ」と言われたことを私は思い出している。

何も知らなかった十代の頃の私にとって、森山さんの写真は憧れの対象ではなかった。そうではなくて、私は不思議な親近感を森山さんの写真に感じていたのだった。だからこそ、繰り返しになるけれど、私は怖いもの知らずの子どものままで写真を続けてきたのだと思う。めぐりあわせとはそんなものなのかもしれない。それに私は感謝するばかりである。

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