微笑みのひと、ふたたび

土居健郎氏という精神医学者のエッセイを図書館から借りてきて読み返している。

そこには、「猫の話」という短い文章が載せられている。器量のよい飼い猫を可愛がるのがこれほどの至福をもたらすことに感動した、という内容で、物言わぬ猫がいとおしく思われるのは著者ご自身が年をとったからではないか、と続けている。

著者はそこで若い頃に読んだ寺田寅彦の随筆を思い出して引用している。それは、「私は猫に対して感ずるやうな純粋な温かい愛情を人間に対して懐く事の出来ないのを残念に思ふ。」という文で始まる。

引用が長くなって申し訳ないけれど、その後に、著者の「恐らくその頃私は人間を愛することがそんなにむつかしいことだとはわからなかったのだろう。しかし私もその後何十年と生きて、人間を愛するむつかしさが身に沁みてわかるようになった。また言葉の空しさ煩わしさもわかってきた。」という文が続く。

これこそが究極のハードボイルドかもしれない。著者は精神医学者だから、人間の醜い部分を嫌というほど知っておられるのだろうし、寺田寅彦は家庭的にはあまり幸せなひとではなかったと私は記憶している。

私がこの本を読むのは二回目だけど、最初はこの「猫の話」にこれほど強い印象を受けることは無かった。おそらくその頃の私も、ひとを愛することの難しさなんかまったく分かっていなかったのだろう。その頃の私はいったい何をしていたのだろうか。今になって私はようやくそんなことを思う。

私は猫を飼ったことが無いし、本気で飼いたいと思ったことも無い。猫カフェに入ったことも無ければ猫グッズを集めているわけでもない。ただ、私の手許には山内道雄さんの小写真集「バンコ」がある。これは、世界中の町角で荒々しくも繊細な人物スナップを撮り続ける山内さんが愛猫を撮った写真集である。ここには世間にあふれている猫写真とはひと味もふた味も違う魅力がある。これは、町角という現場で、人間という生き物を嫌というほど知っておられる山内さんでなければ撮れない写真だと私は思う。「バンコ」には野性と慈愛が同居している。私はそう思う。

結局、そんな達人でなければ猫を愛する資格は無いのかもしれない。だから、当然のことではあるけれど、私に猫を愛する資格なんか無い。その前にまず人間を愛せ、という声がどこかから聞こえて来る。

今の私は、ひとを愛する難しさは以前よりも分かるようになったとは思う。そのうえで、悩み苦しみ迷い、時には傷つきながらも私はひとを愛し続ける他に無い。その覚悟だけは生まれたのだと思う。それ以外に私が成長する方法は無いし、私が幸せを求める方法も無い。そのことだけはよく分かった。

それを私に教えてくれたのは、私が今までいとおしんできたひとたちである。ひとを愛するというのはそんな困難を含んでこそ成り立つものだ、ということもそのひとたちが私に教えてくれた。今の私には、孤独を解消するためにひとを愛するのではない、ということが分かる。そうではなくて、孤独を尊重するためにひとはひとを愛するのだろう。そんな気がする。

この文章を書き始めた時、アフガニスタンで人道支援に尽力された中村哲氏という医師が現地で銃撃されて亡くなった、というニュースが入った。このひとは、「人の愛は信じるに足る。人の真心は信じるに足る。」という言葉を残しておられたとのことである。こんなに美しい言葉を残すには、これほどの人生を歩む必要があるのだろうか。これも、とても私ごときが及ぶことではない。

こんなに美しい言葉を吐く資格は私には無いし、物言わぬ猫を愛することも私には許されていない。繰り返しになるけれど、私はいばらの道を覚悟しながらひとを愛そうとする他に無い。

ならば、笑顔を絶やさないひと、あるいは笑顔が忘れられなくなるひとを私は愛そうと思う。ひとの笑顔が信じられなくて何が写真家だ、と私は自分に言いきかせることがある。そして、今井美樹の「微笑みのひと」という歌を、私はまたしても聞き返している。

この歌には「喜びもそして悲しみも、笑顔で包んで抱きしめるの」という歌詞がある。そして、土居健郎氏のこの本の別の文章には、「悲しみも愛の表現である」というような言葉がある。喜びも悲しみも、それは必ず「微笑みのひと」に伝わる。ならば、何を恐れる必要があるだろうか。私は胸を張って、そして柔軟にひとを愛することができる。「微笑みのひと」を信じることができるのである。

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