全身で見る、全身で考える

明け方、寝床でうとうとしていると、窓の外から聞きなれない鳥の声が聞こえてきた。その声が、私には意味のある言葉として聞こえてきた。それが喜ばしい意味であったことは間違い無いのだけど、こうして覚醒してしまった私にはもうその意味を探ることはできない。でも、私の無意識はその意味をきちんと受け止めて理解して吸収している。さらに不思議なことに、その声を聞いてその意味を理解することが、私自身のメッセージを外の世界に向けて発信することと重なっている。つまり、受信と発信が同時に行われている。その確信は今も揺るがない。

その鳥の声はその後聞こえてこないので、この不思議な体験は今のところこの時だけである。これはべつに心の病気の兆候というわけではない。十数年前に私がうつ病に苦しんでいた時にはこんな不思議な体験をすることは無かった。あの頃は身も心も衰弱していただけだった。

宮沢賢治が、自分の作品は自然が語りかけてくる言葉をそのまま書き記しただけのものだ、というようなことをどこかで書いていたと思うけれど、彼は、自然が発するメッセージを人間の言葉として受け止めることができたのだろうか。そして、そんな体験なり能力は平穏な日常と特に矛盾するものでもない。それが今の私には分かる。

母島で海に潜ったり、十九年前のフランスの写真で写真集を作ったりして、その前後、私はずいぶん気持ちが高揚していたけれど、それが落ち着いていつもの日常が帰ってきても、そんな、今までに無かった不思議な体験が私の身に時々起るようになった。これも日常の一部なんだよ、ということなのだろう。以前書いたように、少し高いところから私は自分を見ることができる。あるいは、私の日常の幅が少し広がった、と考えることもできるだろう。ただ、その足許がまだ少し不安定な気はする。

これは甘美な孤独なのかもしれない。その孤独が深まるほど私には大切な友人が増える。そして、たくさんのひとが私を深く信頼してくれるようになる。私はずいぶん不思議な人生を生きているような気がする。

いつもの日常を生きながら、私は耳を澄ますようにして未来を予感することになる。要するに、心で見ようとするな、心で考えようとするな、ということなのだろうか。心を使おうとすると自分を追い詰めてしまう。そして人間を信じられなくなってしまう。それに私は気がついた。そこからおそらく心の病気が始まる。

心なんてきっと卑小なものなのだろう。心につながっている記憶なんてものもおそらく身勝手なものなのだろう。そんなものに縛られてしまったら、生きることがとてつもなく苦しくなってしまう。

森山大道さんが、「目だけで見るのではない、心で見るのでもない、全身で見るんだ」とどこかで言っておられたと思うけれど、その意味を私はようやく理解することができる。

全身で見ること。そして全身で考えること。それが今の私には何よりも必要なことなのだと思う。つまらない記憶を他人よりも過剰に抱えやすい私は、今までそんな記憶や思い込みに頼って写真を撮ったり何かを考えてきたような気がする。でも、もういいかげんそれは終りにしたい。繰り返しになるけれど、そうしなければ、私にとって生きてゆくことがとてつもなく苦しくなってしまう。日常の、少し高い場所に帰ってきた私にはそれができるはずだ。

何よりも時間を味方につけること。何回も読み返している村上春樹の長編「騎士団長殺し」にそんな言葉が出てくる。こうして今、立秋を過ぎてお盆を迎えて、酷暑は相変わらずだけど、雲や陽射しが秋の気配を見せ始める。何もあせる必要は無い。私はこの日常を生きればよい。そして写真を撮り続ければよい。

全身で見て全身で考える。それが人間を信じることにつながる。そういうことなのだろうか。そして、人間を信じるためには、自然の声を聞けるようでなければならない。それも確かなような気がする。歓びとはそんなふうにして探すものなのだろうか。

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