ヒューマン・ネイチャー

この三月、私は小笠原の母島を訪れて念願の体験ダイビングに参加した。それはもちろん私にとって得がたい体験だったのだけれど、そのときはまさに無我夢中で、こうして四か月ちかくの時間が過ぎてようやくそれについて考える余裕ができてきたような気がする。

ダイビングの前日に島のダイブショップに申し込みに行くと、自己申告の健康診断書に記入した後にテキストを一冊渡される。この体験ダイビングは、健康に問題が無いひとであれば誰でも参加できるものなので、まったく泳げないひとを前提にした、海に入る心構えがここに記されている。これを明日の朝までに読んでおいて下さい、というわけである。

翌朝、ダイブショップに集合すると、エスコートしてくれるプロのダイバーのお兄さんお姉さんが自己紹介してくれて、緊張をほぐしてくれる。自分に合ったスーツやゴーグルを選んでもらって、小さな漁船に乗って出発である。

ダイビングポイントに着くまでの間、船上でダイバーのお姉さんが呼吸法の解説をしてくれる。そして酸素ボンベをしょわせてもらって、呼吸の練習をする。水中では話もできないので、サインの出し方も教えてもらう。

ダイビングポイントに着くと装備を整えて海に入る。小笠原の海も三月は少し冷たい。私が海に入るのは何十年ぶりだろうか。そして、顔を海につけて呼吸の練習をする。それができるようになると、ダイバーのお姉さんの先導でいよいよ海の中に降りてゆく。

これは正直言って怖い。でも「誰でも最初は怖いんですよ」とお姉さんは励ましてくれる。お姉さんはゴーグル越しにずっと私の目を見ていてくれる。「だいじょうぶ、だいじょうぶ」とサインを送ってくれる。

気がつけば、水面がずっと高いところにある。私は今、本当に海の中に降りている。下を見るとサンゴが生えている。これは夢ではない。そこでは不思議な時間が流れている。どのくらいの間、海の中に降りていたのか分からないけれど、浮上して船上にもどって、そして島にもどると何かが違って見える。

これは、私にとって人間を信じる訓練だったのではないか、という気がする。怖いけれど、先導してくれるダイバーのお姉さんを信じて、少しずつ海の中に降りてゆく。そして、海の中に降りてしまえば不思議に怖くはない。地上にもどると出発前とは自分も世界も少し違っている。世界は美しい。私はそう思う。怖いけれど、人間を信じて深いところに降りてゆくこと。それがこんなに豊かな稔りをもたらしてくれる。そのことを私は今、母島から帰ってきてからも学んでいる。

話は変わるけれど、その時は親友だと思っていても、新しい世界に踏み出す勇気を持てずにくさっていった友人たちとはいつのまにか疎遠になってしまった。そして、新しく私の前に現れるのは、そんな勇気を持った素敵なひとばかりである。

そんなふうな、いちど疎遠になってしまったかつての親友と再会しようとは私はもう思わない。思い出の中に退場して、別の世界でそれなりに元気に過ごしてほしい。懐かしい、という理由だけで縁の切れてしまった旧友と再会してはいけない、ということを私はかつて学んだ。

友人だけではなくて、かつて好きだった作家、たとえばフランツ・カフカも、結局はそんなふうに生まれ変わる勇気を持てずに、病気を呼び寄せて早死にしてしまった。もう私はカフカの小説も恋文も読まなくていい。そんな気がする。結局、カフカは柔軟に生き続ける勇気を持てずに子どものままで死んでしまった。私はそんなふうに生きるわけにはゆかない。

人間は成長する勇気を持って、怖さを克服して、何度でも原点にもどりながら生きてゆかなければならない。そのことを私に最初に教えてくれたのは、ジャズの帝王と呼ばれたマイルス・デイヴィスだったと思う。

私はマイルスのライヴに接することはできなかったけれど、私が彼のレコードを聴き始めたのは、ポップ・マイルスの入り口と言われた「ユア・アンダー・アレスト」が出た頃だった。

このレコードは、マイルスの他の名盤に比べるとそれほど評価は高くないみたいだ。それでも、私は今でも「ユア・アンダー・アレスト」がとても好きだ。病気を乗り越えて、傷だらけになってどん底からはい上がってきたマイルスの、トランペットで歌いたい、という強い意思が感じられるからだと思う。

病気に倒れる前のマイルスの演奏ももちろん私は大好きだけど、それはマイルス・デイヴィスという人間の肉声が聞こえてくる、というよりも、彼がトランペットを吹くとそこに音楽の神様が舞い降りてくる、といった印象がある。余談ながら、そんな音楽の神様を招くために、彼のバンドにはウエイン・ショーターやキース・ジャレットに代表される、天才と呼ばれる若手を入れておく必要があったのだろう。

長い病気を乗り越えて復活したマイルスにはもうそれは必要が無かったのだと私は思う。バンドに天才がいなくとも、あるレベルの音楽を用意してくれれば、あとは俺のトランペットが歌う。マイルス・デイヴィスという人間の肉声を精いっぱい聴かせたい。そうであれば、その音楽がジャズである必要も無かった。そんなマイルスのトランペットがすべてのポーズを捨てて朴訥に歌う「ヒューマン・ネイチャー」が私はとても好きだ。この演奏は「ユア・アンダー・アレスト」に収められている。

その数年前、六年ぶりの復活ライヴでのマイルスをとらえた写真が私の手許にある。マイルスは客席にいた愛妻シシリー・タイソンのもとにひとりで歩み寄って、愛妻の胸にトランペットを押しつけて、愛妻を抱きかかえるようにして一心にトランペットを吹き続けている。その目はまっすぐに愛妻のひとみを見つめている。

地獄からはい上がってきたマイルスは、人間を信じたかったのだと今の私は思う。もはや、そこからしか音楽は生まれないことをマイルスはさとったのかもしれない。それが愛妻への感謝となって現れたのかもしれない。

この雑誌にはもう一枚、愛妻シシリー・タイソンの肩を抱くマイルスのツーショットが収められている。カメラをまっすぐに見つめるマイルスの目はこの世のものとも思えないくらい澄みきっている。この時、マイルスは五十代なかばのはずである。でも、ここでのマイルスの表情は、まるで好きな女の子の肩を初めて抱いた少年のようにも見えるのである。そのことが私を感動させる。

人間を信じたい。そのためには強くしなやかでなければならない。マイルスが私にそれを教えてくれている。

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