ドレスアップ

今、私の二冊目のささやかな写真集の制作が佳境に入っている。タイトルは「パリ/フランス 2000年3月 VolumeⅠ」。もう十九年も前にフランスを旅した時に撮ったモノクローム写真をまとめた小写真集である。これは、前回の私の写真集「小笠原諸島 母島への旅」とだいたい同じ体裁の、ソフトカバーの本当にささやかな本になる。

なぜ、あの写真が今頃になってこんなふうに動き始めたのだろう。それはもちろん、たくさんのひとたちの暖かい助力のおかげなのだけれど、作者の私としては、撮ってからもう十九年も経っているのか、とかえって不思議な気持ちがしているくらいだ。

2000年早春のパリ。アメリカの同時多発テロの前年だから、今よりもずっと平和なパリだったと私は思う。通貨もまだユーロではなくてフランだった。

私はその頃、長野県上田市に住んでいて、あれこれ追い詰められて身体に不調をきたして仕事を辞めて、その上うつ病の入り口という最悪の状態だった。その頃の自分のことはもう思い出したくないけれど、上田市の商店会が企画した格安のパリ旅行に参加して、私は生まれて初めての海外旅行に旅立った。日程は一週間も無かったと思う。

尊敬する写真家や文学者や芸術家や科学者が愛した町を、私もひとりでさまよって写してみたかった。ユジェーヌ・アジェの写真や佐伯祐三の絵が十代の頃から私の中に住みついていた。三月のパリは街路樹が茂る前なので、町並みを見るのには一番よい季節ですよ、と言われたのも魅力的だった。

当然、主治医にも両親にも反対されて、友人たちにもずいぶん心配をかけてしまった。それでも、「今しか無い」という思い込みを私は押し通した。考えてみれば、飛行機に乗るのさえ生まれて初めてだった。

行き帰りの飛行機と、パリでのホテルだけをそのツアーで取ってもらって、ツアー初日の午前中だけ他の参加者と観光バスに乗ってパリの名所を訪れた後は、私はずっとひとりでパリの町を撮り歩いていた。初めての海外旅行なのに、何であんなに懐かしかったのだろう。危ない目にも遭ったのに私はまるで怖くなかった。それが今でも不思議だ。

そして、特急電車の切符を買ってパリをひとりで抜け出して、詩人アルチュール・ランボーの故郷として知られるフランス北部の小さな町、シャルルヴィル・メジエールに私は旅をした。シャルルヴィル・メジエールの駅の案内所でホテルを紹介してもらって一泊して、ランボー記念館を訪れた。もちろん、シャルルヴィル・メジエールの町を私は撮り歩いた。日本人が町に私しかいない、そんな孤独がとても心地よかった。そこはまさに「夢の町」だった。

あの世のランボーが、「しょうがねえ、お前ならまあ来てもいいぜ」と私を許してくれた。私は今でも本気でそう思っている。ただ、アフリカへの思いを断ち切れずに、病気を押してシャルルヴィル・メジエールを出発してマルセイユで死んだランボーの魂は故郷にはいないだろう。私はそう思ったので、あえて彼の墓参りはしなかった。かわりに、パリのペール・ラシェーズ墓地で、前年に亡くなったピアニスト、ミシェル・ペトルチアーニの墓参りをした。

そして、シャルルヴィル・メジエールからの帰りは途中下車して、私は古都ランスをひとりで撮り歩いた。ランスは、思想家で極上のポルノグラフィーの作者としても知られるジョルジュ・バタイユが少年時代を過ごした町である。その、バタイユの暗い少年時代とあまりにもかけ離れたランスの美しい陽射しに私は感動した。もちろん、行き帰りの電車の中でも素敵な出会いがあった。

つけ加えておけば、パリを走るバスの窓からパンテオン(大霊廟)を撮ったのは、ロートレアモンへのオマージュのつもりである。「マルドロールの歌」の最後にそれは登場する。

この旅で、私はカメラを二台持ってモノクロフィルムとカラーフィルムで撮り続けた。フランスにいた間は心身の不調なんかどこかに消えてしまって、私はまさに絶好調でシャッターを押し続けていた。

たくさんのひとに親切にしてもらったし、安くて美味しいものを食べることができたし、私のつたないフランス語が問題無く通じたのも不思議だった。ランボー記念館で、私は学芸員に「ランボーは両親が離婚した後に父親に会ったことがあるのですか」という質問をした。あらかじめそのせりふを考えていたわけではない。そんなフランス語がよくまあ私の口から出てきたものだと思う。まさに火事場の馬鹿力である。「会っていないと思うけれど確証は無い」というのが私の質問への答えだった。その時、私の「ランボーのポートレート」という(もちろん日本語の)エッセイを学芸員に渡してきたので、これはランボー記念館の所蔵するところとなっているはずである。

それでも、町をゆくひとが話すフランス語をとっさに理解するほどの能力は私には無いので、旅の間、私は本当にひとりきりになることができた。日本と違って雑音が聞こえてこない。そして、ひとびとは決してお金のかかった服を着ているわけではないけれど、誰もが粋である。皆が少し緊張感のある美しい表情をしている。それがとても心地よかった。

そんなわけで、「パリが私を写真家にした」なんて書くとあまりにもかっこよすぎるけれど、本当なのだから仕方が無い。それ以前に日本で撮った写真は、もう私の個人的な思い出でしかなくて、それを今さらこんなふうにまとめるつもりにはとてもなれない。パリやフランスの風土が短い間に私を変えてしまったのだと思う。

旅の思い出はたくさんあるけれど、それを書き始めるときりが無いので止める。帰国してからその写真を少しずつ整理して、自宅の暗室でプリントの制作を続けた。それがうつ病の治療にもなっていたような気がする。そして、心身の調子が回復するのを待って私は上田市のギャラリーで個展を開いた。上田での恩人の助力である。そして、心身が全快したところで私は岩手県盛岡市に帰ってきた。

この写真は、他に「東京光画館」で発表した以外はずっと押入れにしまっておいたのだけど、盛岡でお世話になっている写真店が、店内の空きスペースを使って小ギャラリーを作った時、写真店の社長が私にも声をかけてくれた。「ここに常連さんの作品を飾ることにするから、あなたも何か出しなさい。定期的にあなたの写真をここに飾りなさい。」そこで私の頭に浮かんだのがフランスで撮ったこの写真だった。他のひとからも、「それは盛岡でも見せろ」と言われていたのを思い出したからだ。

そんなふうに、毎年少しずつ自分の写真を見直して、私自身も少し年を取って、写真集の作り方をおぼえて、素晴らしい印刷会社との縁もできて、こうして撮影してから十九年目にして私のフランスでのモノクローム写真は素敵な写真集にドレスアップされることになった。最初の写真集「母島への旅」はデジタルのカラー写真だったから、次の写真集はモノクロームで作りたかった。

今回、私の写真集を担当して下さる印刷会社は、何と立木義浩さんがわざわざ仕事を頼んできたというほどの腕前である。その会社の、切れ者の担当者が私の写真をドレスアップしてくれることになった。彼女は「阿部さんがキリコの絵が好きだということを聞いて、阿部さんの写真がよく見えてきました」と言ってくれた。

でも、どうしてなんだろう、レイアウトを済ませて、写真原稿と一緒にそれを彼女に渡した翌日に気づいたのだけど、私は本当にさみしいのだ。何かを失ってしまったような気がして仕方が無い。十九年というのは生まれた子どもが巣立ってゆくのと同じくらいの時間だけれど、もしかしたら、息子を手放した母親の気持ちにこれは似ているのだろうか。

この写真はドレスアップしてもらって、原稿と一緒に私のもとに帰ってくる。それなのに、私はさみしくてさみしくて仕方が無い。「真実にうれしいときは、またかぎりなく寂しいものだ」と森山大道さんは書いておられたけれど、これがそれなのかもしれない。この十九年間、いろんなことがあったけど、あの写真がずっと私を支えてくれた。私はようやくそれに気がついた。

偶然にも、数日前に、亡くなった母について父がぽろりと口にした言葉がある。「お前が大学に入って家を出て行った時、お母さんは「今日は泣かせて」と言って大泣きしたんだぞ」と。息子の前では絶対に涙を見せない母親だったので、私は母が泣く姿を想像することができない。でも、これが「恩寵」というものなのだろうか。

母と違って、私はずいぶん泣き虫の男になってしまった。でも、フランツ・カフカみたいな悲しい恋はしたくない。もちろん、「危うい恋」なんかしたくない。そもそも、南方熊楠を引き合いに出して、「生涯にわたって続く幸せな恋とはそんなふうに風通しが良いもののような気がする」と書いたのは、この私なのである。

誰にでも胸を張って笑顔を見せられるような素敵な恋をしたい。風通しのよい、一生続く幸せな恋をしたい。いい歳をして、歯の浮くようなことを書いているけれど、これが私の本心なのだから仕方が無い。うしろめたい恋なんて私はしたことがないけれど、これからだってそんなものはしたくない。

ところで、私の最初の写真集「母島への旅」が亜熱帯の陽射しにあふれたカジュアルで快活なお嬢さんだとするならば、今度の「パリ/フランス」はフォーマルで口数の少ないお嬢様ということになるのかもしれない。異国の町を写したモノクロームの写真集で、コメントはすべてフランス語である。私の写真をドレスアップしてくれる印刷会社の担当者は、「この二冊は同じひとが撮ったようには見えない写真集になりますね」と言ってくれた。

そして、そんな私の新しい写真集をどうしても見てほしいひとが、盛岡から遠く離れたところに住んでいる。なだらかな丘の中なのか、あるいは深い森の中なのか、素晴らしい自然の中で暮らしているそのひとの声を聴くのを、私は楽しみに待っている。私の分身と言っても差しつかえない、異国の町の写真集の誕生をそのひとに喜んでもらえるのなら、私は本当に嬉しい。

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