モーリス・ブランショの中篇小説「死の宣告(ラレ・ド・モール)」を訳した三輪秀彦氏が八十八歳で亡くなったことを昨年暮れの新聞記事で知った。
この、「ラレ・ド・モール」、「死の宣告」と日本語にしてしまうと、この題の正確な意味が損なわれてしまうようなので片仮名で書くことにするけれど、これは私にとって本当に特別な小説なのである。
申し訳ないけれど、その内容を紹介するのは私の手に余るので控えさせていただく。私にとって、これは尾崎翠の「第七官界彷徨」とか、石川淳の「佳人」とか、村上春樹の「1973年のピンボール」、あるいは坂田靖子の連作長編マンガ「バジル氏の優雅な生活」のような、まさに別格という言葉がふさわしい宝物である。
その尾崎翠の全集に付された解説にあった言葉だけれど、この「ラレ・ド・モール」も、小説なんてこれだけでいい、と読者をとりこにする謎めいた魅力を持っている。
私が読んだ範囲なんてたかが知れているから、こういった小説は他にもあるのだろうけれど、それでも今挙げた作品は、さりげないようでいて、しかし他に比べようの無い深い恋愛を描いていると私は思う。
私が初めて「ラレ・ド・モール」を読んだのは十八歳の頃だったけれど、そんな時期にこの小説に出会って魅了されたのが、実は私のその後の人生をかなり規定してしまったのではないか、と今になって私はようやく気がついている。
高校生の頃、私はカフカの小説や手紙を読み続けていたけれど、カフカの解説に必ずと言っていいほど名前が出てくるのがブランショという作家で、そのブランショについて調べてみると、現存する作家でありながらポートレートが存在しない、とか、日本で言えば吉本隆明のような「別格」の作家であることが私にも分かった。その長編小説も評論も、恐ろしく難しくはあるけれど、不思議な魅力をたたえた強靭きわまりないものだ、ということも当時の私には分かったのである。それで最初に通読したのがこの「ラレ・ド・モール」だった。訳者の三輪秀彦氏が書いているように、これはブランショの小説で普通の小説にいちばん近い形をなしている。
十八歳だった私は、この小説に魅了されたおかげで普通の小説が読めなくなってしまった。そして、恐ろしいことに、そのおかげで私は普通の恋愛ができなくなってしまった。それに今になってやっと気がついた。
セックスや普通の結婚を暗黙の目的としているありふれた恋愛が、この本を読むとまったく色を失ってしまう。それよりもっともっと深い交流が男と女の間で可能である。それを知ってしまった二十代の私が普通の恋愛をしようとしてもうまくいかないのは当然のことだった。それを理解できる女の子がそんなにたくさんいるとも私には思えないけれど、そんな適切な相手と恋愛する知恵も当時は無かった。若かったのだから仕方が無い。
この、「ラレ・ド・モール」に描かれている美しくも妖しくて深い関係を恋愛と呼ぶことがはたして適切なのか、それさえも危うくなるほどの魅力がここにあるのだけれど、これは恋愛ではなくて、ブランショがよく使う「友愛(アミチエ)」という言葉しか無いのかもしれない。しかし、私にはそれさえも不適切であるような気がする。
それでも、そんな経験のおかげで、私はたくさんの素敵な異性の友人に恵まれている。友人以上恋人未満、とはよく言われることだけれど、これは凡百の恋愛よりもずっと深くて愉しい関係であることが今の私には分かる。不思議なことに、ブランショなんかとまったく縁が無さそうな女性もその中に何人も含まれている。これこそが「ラレ・ド・モール」の稔りなのだろう。優れた文学は、本人が気がつかないうちにその人生を深く規定してしまって、苛酷な試練と美しい稔りをもたらしてくれる。ブランショの評論にもそんなことが書いてあったような気がする。優れた文学にはそれほどの力がある。
その後、私は東京の書店で「ラレ・ド・モール」のフランス語の原書を手に入れた。もう二十年近く前、私がフランスを旅することが決まった時、フランス語のおさらいのつもりでこれを訳してみた。文法的にはそれほど難しくないフランス語で、それでも半分くらいしか訳せなかったけれど、これがまるで散文詩のように美しくて多義的なフランス語で書かれていることは私にも分かった。ブランショはマラルメやロートレアモンを深く研究した作家だから当然のことではあるけれど、それが私ごときにも分かるのが凄いと思う。
この、永遠に続く美しい部屋を思わせるブランショの文章が私を深いところで変えてしまったのだと思う。思い上がりを承知のうえで私はそう言ってみたい。
ところで、三輪秀彦訳の「ラレ・ド・モール」を私は今まで何回読み返したことだろうか。何かあるたびに私はこれを読み返している。その経験は常に新鮮であり、しかもそのたびに新しい真実を私に教えてくれる。これほどの名作が、手に入りやすい形で復刊されないのが私には本当に不思議だけれど、またしてもこれを読み返したくなる素敵な出会いが私には用意されている、という確信がある。
いずれそのねがいがかなって時が過ぎて、私はブランショの他の小説、たとえば「最後の人」「期待 忘却」「謎のトマ」をようやく読むことになるのかもしれない。ブランショの評論「ロートレアモンとサド」が私に文章の力をまざまざと見せつけてくれたように、その時に私はまた深い真実を学ぶことになるのだろう。でも、ブランショとまったく縁の無さそうな私の「友人」の女性は「阿部君あいかわらずね」と今も苦笑しているのだろうか。それもまた愉しいけれど。