思い姫ドゥルシネーアのために

セルバンテスの名作「ドン・キホーテ」を読んだのは五年くらい前だったろうか。岩波文庫から出ている牛島信明訳の、全六冊になる長編小説である。これは、近代小説の元祖、という評価が定まっている名作で、サドやドストエフスキーも愛読していた、というのも分かるような気がする。それでも、「ドン・キホーテ」は私でも通読できるのだから、これは飽きが来なくて面白い物語なのである。そしてもちろん深い。

騎士道物語を読み過ぎて正気を失った五十男が、自分も騎士ドン・キホーテと名乗って遍歴の旅に出る。やせ馬ロシナンテと近所の農夫サンチョ・パンサが彼に同行する。そして、こっけいな冒険を続ける。ドン・キホーテとサンチョ・パンサが、どちらが正気か分からないような、おかしな対話をしながら旅を続ける。

遍歴する騎士には愛をささげる貴婦人が必要だ、ということで、ドン・キホーテは近所の村で見かけた田舎娘にドゥルシネーア・デル・トボーソという名前を勝手につける。しかし、彼女自身は物語にはまったく登場しない。彼女はあくまでもドン・キホーテの心の中だけに住む憧れの思い姫ということになっている。

それにしても、何で私は今ごろになってドン・キホーテのことを思い出したりするのだろう。 要するに、私はドン・キホーテではないのか。私の喜びも悲しみも苦しみも、すべてはひとり芝居のまぼろしではないのか。そんなことを私は最近になって強く思うようになったからだと思う。もっとも、たくさんの読者にそう思わせる力があるからこそ、「ドン・キホーテ」は世界文学の古典になっているのだろう。

・・・私を私と思いこんでいるドン・キホーテ。あるいは、カメラを持ったドン・キホーテ。それがきっと私なのだ。そんな、はた迷惑な妄想を抱えたまま、私はこうしてこの歳まで生きて来てしまった。

今頃になってようやくそれに気づいたのだけど、もうやり直しはきかない。恥ずかしいけれど、それでもそれに居直って生きてゆくのもどうかという気がする。どうすればよいのだろう。私は途方に暮れるばかりである。それは、私もドン・キホーテとたいして変わらない年齢になった今だからこそ思うことなのかもしれない。

そんな、勝手な妄想を抱えて生きることをこれまで許してくれた、たくさんのひとに私は感謝しなくてはならない。そして、その妄想(希望とか夢とか才能とか言い換えてもよい)をはげましてくれたり面白がってくれたひとにも私は感謝しなくてはならない。でも、そんな味方がこの世に少なからずおられるということは、人生というのは本来そういうものなのだ、ということを示しているのだろうか。そんな気もする。

それを自覚したまま私はこれからも生きてゆくしかないのだけれど、もしかしたら、写真家というのは、全員が勝手な妄想を抱えたドン・キホーテではないのだろうか。カメラを抱えて、こっけいなひとり芝居を演じているのが写真家の正体かもしれない。カメラのシャッターを押すという行為は、妄想やひとり芝居の入り口になってしまうのかもしれない。

それでも、私は目に映る世界をなるべく素直に写し撮ろうとしているだけで、ドン・キホーテのように風車が巨人に見えていたりするわけではない。それでも、この景色を撮りたいと思った時、私はそこに何か別の深みを見出しているのだと思う。それが私の写真を撮る動機になっているはずだ。

その結果として出来上がった私の写真には、この現実の複写という意味しか無いはずなのに、そこに何かしら感受性を揺さぶるものを見出して下さる方が何人もおられる。これは本当にありがたいことだし、そのおかげで私は写真を撮り続けてゆくことができる。つまり、私はドン・キホーテのまま生きてゆくことができる。個人的な妄想にいくばくかの普遍性を与えてくれる。これが写真の魔法なのだと私は思う。

繰り返しになるけれど、そんな生き方を許して下さる人間の優しさに、私は今さらながら感謝して感動する。

ところで、ドン・キホーテの思い姫ドゥルシネーアは物語に登場することは無いので、彼女が何を思うのか、それはドン・キホーテにも作者にも分からないことになっている。しかし、結果的にドゥルシネーアはドン・キホーテの生き方を許して遠くから応援している。私はそう思う。それが彼女のつれない優しさなのだろう。

その優しさが無ければドン・キホーテはドン・キホーテではいられない。でも、彼女の真意は彼には絶対に分からない。本当の優しさとは、もしかしたらそんなものなのかもしれない。それでも、ドン・キホーテは、その優しさだけはよく理解しているように私には思える。実は、ドン・キホーテはそんな大人の優しさをわきまえた、この上ない紳士なのかもしれない。その切なさは私にも分かるような気がする。

物語の最後に、ドン・キホーテは正気を取り戻して、もとの善人アロンソ・キハーノに戻って死んでゆく。死の床で、彼はサンチョ・パンサに今までの愚行を詫びる。でもサンチョ・パンサは主人をはげまして、また一緒に旅に出ようと語りかける。そうすれば思い姫ドゥルシネーアに会えるかもしれない、と見果てぬ夢を語る。

私は残念ながら観たことが無いけれど、先代松本幸四郎がドン・キホーテを演じるミュージカル「ラ・マンチャの男」では、ここで彼が立ち上がって、人生の賛歌を力強く歌う感動的な場面が用意されている、ということである。

優しさとはなんだろうか。孤独とはなんだろうか。それを実感することはできても、その真の姿が私にはまだ分からない。それでも、私はこうして生きてゆくことができる。これはきっと幸せなことなのだと思う。

ひとの心の不思議と、その優しさに思いを馳せながら、私はまた「ドン・キホーテ」を読み返してみよう。そんなことを思うばかりである。

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