終りと始まり

三万七千年前に描かれたとされる、フランスの洞くつで発見された壁画を科学雑誌の写真で見た。これは、人類が残した最古の絵画のひとつと考えられるもので、彼らの獲物であったと思われる、角を生やしたけものの群れが、ほとんどモノトーンと言ってよい色調でリアルに描かれている。

これを描いたのが我々の直接の祖先であるクロマニョン人なのか、それとも我々とは系統が異なるネアンデルタール人であるのかは定かでないらしい。いずれにせよ、彼らは火を使うことは知っていたものの、土器も農耕も知らない狩猟生活を送っていたことはたしかである。

この壁画は世界遺産に登録されているものの、保存のために一般への公開は行われていない、とのことである。それでも、紙面を通してこの絵は圧倒的な迫力で迫ってくる。

この、我々が目にすることができる最も古い絵には、その後のすべての絵画、つまり文明が始まってから二十一世紀初頭の今に至るすべての絵画がすでに含まれているのではないか、と私は直観する。印象派もシュルレアリスムもポップアートも、すでに三万七千年前に表現され尽くしている。私はそんな戦慄を覚える。

ここに描かれている角を生やしたけものの群れは、彼らの獲物であったと同時に彼らの分身であり、精霊であり、死者や生まれて来る子どもたちの魂でもあったのだろう。彼らはここに描かれているけものに変身することで時間も空間も越えて、この宇宙を自由に行き来することが出来たのだと私は思う。それが、この壁画を描いた理由だったのかもしれない。

彼らは我々とは比べものにならないくらい自由だった。その生活は歓びにあふれていた。私はそう思う。それは、彼らの生活の厳しさや寿命の短さをはるかに超えていた。そして、この壁画が彼らの生活の記録でもあると考えるのなら、ここに写真の原初を見ることさえ可能になるのかもしれない。余談ながら、暗闇の中で、たいまつの灯りを頼りに描かれたであろうその情景は、私についつい暗室作業を思わせてしまう。

我々のアートが三万七千年前にすでに表現され尽くしているのならば、二十一世紀に生きる我々はいったい何をすればよいのだろう。歴史や進歩なんて我々の思い上がりなのかもしれないし、我々の快適な文明は、一転すれば退屈な地獄でしかなくなる。それを恐れて我々は目をふさいでひたすら前に進んできたのかもしれない。そして、三万七千年前のご先祖様のような精神の自由を我々が取り戻すことはおそらく不可能である。

しかも、我々の文明はもはや衰えるばかりである。この、あまりにも自明なことをあからさまに語るひとが皆無なのが私には不思議でならない。便利と快適が別のものであることにさえ我々は気づいていない。我々はそこまで衰えている。

ただ、それでもこうして地球は廻っている。朝が来れば夜も来る。我々の生活が続く限り、どんな時代であってもそこにはアートが生まれる余地があるだろう。ならば、もはやアートの優劣やらオリジナリティなんてものにこだわる時代ではなくなっているように私は思う。それが、生きる歓びをいくらかでも伝えることができればそれでよいのではないか。そんな気がする。

そして、我々の無意識は、今でも三万七千年前のご先祖様にどこかでつながっているはずだ。その細いつながりを探りながら、この二十一世紀初頭の光と闇を生きてゆくこと。それしか我々に出来ることは無いのかもしれない。そんな覚悟を決めてしまえば、我々に生きる理由は無い、なんて言葉がただの甘えでしかなくなるのもたしかである。

我々は生き延びなければならない。地球が廻っている限り、生きる歓びを探して生き続けなければならない。それが、こんなに素晴らしいアートを遺してくれたご先祖様へのせめてもの返礼なのだろう。

未来へのつながりもまた細くて探り難い。それだけのことなのだと私は思う。それでも、それをかすかに予感することは不可能ではないはずだ。それはいつの時代も変わらない。三万七千年前の壁画が我々にそう教えてくれるような気がする。

春夏秋冬、今年も季節がめぐる。写真家はそのかけらをひろい集めることができる。森山大道さんが言っていたように、それは歴史につながる営みになる。その歓びを今年も大切にしたい。それが私の新年の抱負になる。

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