夏休み

盛岡でもこの夏はずいぶんと暑かった。こんなに暑いと、身体も頭も意外なところがおかしくなってくるものらしい。それでも立秋を過ぎて、風は少し涼しく感じられるようになった。お盆に少しでも心身を休めて次の季節に備えたい。

その暑さが少し和らいだように思えたこの前の日曜日、お昼前に私は盛岡の町中の書店で田中慎弥の「孤独論」という本を買った。書店を出て、しばらく休業していたエスニック料理店にひさしぶりに入ると、外国人の店長から「少しやせましたね」と日本語で声をかけられた。まさか私のことを憶えているとは思わなかったのでとても感激した。そして、食事を終えると私は後ろから肩を叩かれて、ふり返ってみると職場のボスがお嬢ちゃんとふたりで昼食を食べていたのだった。なるほど、人間というものはこんなふうにつながっている。人間は自分で思うほど孤独ではない。今さら言うまでも無いことだけれど、まんざら世の中は捨てたもんじゃない。それは田中慎弥の「孤独論」にも書いてあることだった。ただ暑くてぼんやりしているだけなのだと思う。

自分でも気がつかないうちに、本当にたくさんのひとに支えられて私はこうして生きている。灯台もと暗しと言うか、そのつながりがあまりにも広大なので、我々はそれを見失ってしまいがちなのだろうか。

そのつながりの輪の中で、自分がそれなりの役目を果たしていることを多少なりとも実感できるのならば、何も恐れるものは無くなるだろう。そして、その輪には死者や歴史上の人物までもが含まれることを知ることができれば、我々は時間や空間の制約さえも乗り越えることができるのかもしれない。

それならば、写真にこれ以上何を期待しろと言うのだろうか。多くの写真家が言うことだけれど、写真は向こうからやってくる。写真家はシャッターを押すことでそれをつかまえるだけだ。そんな写真は、大いなるつながりの輪を生きる我々ひとりひとりのかけがえのない記録になる。そして、その記録は豊かな可能性を秘めた詩に等しい。

少なくとも私にとって、写真はそれ以上のものでもそれ以下のものでもない。だから、写真を審査して順番をつけようとしたり、それは写真の可能性のひとつなのかもしれないけれど、それにいつまでも血まなこになっているひとたちが私には理解できないのである。

写真は記録であり詩であり遊びである。そんな簡単なことを素直に理解することがどうしてこんなに困難なのだろう。いちどそれに気づいてしまうと、写真に関する一切のことが、まるで悟ったようによく分かるようになる。あとはもう何も思い煩うことは無い。無限に押し寄せてくるこの現実を受け止めてシャッターを押し続けるだけである。

シャッターを押せば写真は勝手に写る。そして、我々が生きるこの現実は、百年以上も前に詩人ランボーが書いたような「ざらつく現実」であるとは限らない。その背後には広大なつながりの輪が控えているのだから。

以前、北斎やわらさんに言われたように、「疲れたら休め」それだけのことなのだと私は思う。そして、夏が過ぎれば秋がやってくる。「もう秋か」これもランボーの詩の一節だけど、秋の豊かな稔りをランボーは信じることができなかったのだろうか。そのあげく、ランボー自身が詩を捨てて灼熱のアフリカに渡るのはよいとしても、そこで身体を悪くして故郷に帰って早死にしてしまうことはないだろう、と今の私は思う。

ランボーには健康を保ちながらアフリカの砂漠で長生きして欲しかった。年老いたランボーが自分の若い頃の文学的業績を突き付けられた時、アフリカでの商人としての実績と照らし合わせて彼は何を語っただろうか。それを私は聞いてみたかった。

楽しかったことも苦しかったことも、過ぎ去ったことはすべて夢だと思うように生きるべきである。私の枕元にあった本をめくっていたらそんな言葉に出会った。ランボーの時代には無かったものだけど、そんな夢を彩るために古い映画や流行歌があるのかもしれない。それに私は感謝したい。

そんな夏休みを終えると秋がやってくる。私はふたたび仕事をこなして写真を撮り続ける。秋の陽射しや青空が待ち遠しい。

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