異界との通路
昨年末の母の急逝から四か月が過ぎて、盛岡にもようやく春がやって来た。寒くて雪が多くて、長くて厳しい冬だったと思う。いろいろな意味で、私はこの冬を忘れることは無いだろう。そして桜が散る頃、うららかな春の陽射しの日に母の納骨を済ませて、家の片づけも少しずつ進んで、気候があまり落ち着かないけれど、今は待ちこがれていた新緑の季節を迎えている。
そんなわけで、季節がめぐった、と私はやっと実感することができる。四十九日とか納骨とか、死者を送る儀礼にはそんな意味があるのかもしれない。人間も地球の回転とともに生きていることを私は実感する。
そして五月の連休に、私は下北半島の温泉を訪れた。あれこれ都合が重なって昨年秋はそこに行けなかったので、これもずっと待ちこがれていたことだった。その前日には、「座敷わらし」がいることで有名な岩手県北端の金田一温泉に初めて泊まってみた。いずれも民宿を泊まり歩くささやかな貧乏旅行である。
どちらも私が心からくつろげる、静かで自然が豊かで人情が厚くて、そして食べ物が美味しい、心身に効く素晴らしい温泉なのだけれど、何と言えばよいのだろう、そこは私にとっていつのまにか特別な異界ではなくなっている印象があってかえって驚いてしまった。
以前は、そんな懐かしい異界に足を踏み入れると、空気が少し揺らぐような感触があったのだけど、今の私にとって、そこは異界でありながら異界でない、日常とそのままつながっている、ごく自然な場所になっているのである。私にとって、異界との通路が以前よりもずっと自然で風通しがよくなっている。そんなふうに言えばよいだろうか。
このふたつの温泉のお湯につかり、そのひなびた気配につつまれて歩いて写真を撮る。そしてぼんやり考える。母があちらの世界に落ち着いたおかげで、私は異界との自然な通路を手に入れたのかもしれない、と。
火葬場で母の棺を送る時、私は「いってらっしゃい」と声をかけたけれど、なるほど死というのは消滅ではなくて、あちらの世界への移住なのだ、ということが今の私には自然に納得できる。母のそんな「引っ越し」のおかげで、私には異界が身近になったように思えるのだ。
ずっと以前、たしか二十代の終わり頃に、私は「写真を続けていれば、この世にいながらにして異界との通路を確保できるかもしれない」と思ったことがあった。その不思議な可能性が私をこの世界にひきとめてくれた。それが、その時に直面していたつまらない破滅から私を救って成長させてくれた。
今回の旅には、何回か読み返したことがある「ギルガメシュ叙事詩」と、吉田健一訳の「ファニー・ヒル」を持って行ってぱらぱらと読み続けていた。「ファニー・ヒル」は以前、別のひとの抄訳で読んだことがあるけれど、吉田健一訳は初めてである。訳文もさることながら、巻末の訳者あとがきも素晴らしい。その中にこんな文がある。「しかし幸福な一生を送って死ぬというのは万人の願いなのであり、それが適えられないのが実際にはむしろ例外であることは、文学ではなくとも、人生がわれわれに教えてくれる。」
これにつけ加えるべき言葉などもはや無い。母の棺に入れた私のささやかな写真集「小笠原諸島 母島への旅」、これを見た温泉民宿のおばさんは「あなた自身が闇から光の世界に抜け出た印象があります」と言ってくれた。異界に住むひとは、そんな言葉を自然に発してくれるのである。
母があちらの世界に移住したおかげで、私には異界との自然な通路とこの世界の光が与えられた。そう考えてよいのだろうか。そして、母の死によってたくさんの記憶が変容してゆく、それは確かなことである。ならば、この新緑の季節の中で、その光のもとで、私は存分に生きればよい。そして写真を撮り続ければよいのだ。