春の如く

厳しくて長かった冬がようやく終わろうとしている。いつのまにか、着ぶくれしなくてよくなってくる。陽射しが明るくなってきて雲が鮮やかに見える。そんな外界の変化に身体が敏感に反応しているのが私には分かる。脚の痛みも肩のこわばりもやっと完治しそうだ。青空のもとで写真を撮り歩く楽しみがもどってくる。素直に嬉しい。
 今思えば、二十代までの気力や体力が過剰に充実していた頃は、そんな外界の変化に今よりも鈍感だったような気がする。そのせいで私は他者を傷つけたことがあったかもしれないし、私自身、あまり深みの無い生活を送っていたような気もする。  身体が季節の変化に敏感に反応しているのを実感すると、近代以前のひとびとが人体を小宇宙としてとらえて、それを外界の大宇宙に対応するものとして考えていたことが自然に納得できる。身体と精神が穏やかにせめぎあうのを意識するのはことのほか楽しいことで、自分がひとつの小宇宙であることを自覚していれば、この世に恐ろしいものは何も無くなる。
 意識や精神も自然の所産ではあるのだけれど、そんな自意識がみずからの内側をながめてみると、そこには無限の星空が広がっている。外界と内界には広大な宇宙が等しく存在する。外界に存在するものはすべて内界にも存在する。そして、光と闇はそこをまたいで存在している。我々がそれを自由に駆けめぐることは残念ながらできないけれど、それを凝視しようとすることはできる。人生に限りがあるのなら、それで充分かもしれない。
 写真を撮るのがなぜこんなに楽しいのか。それは、写真は外界の現実に対応して生まれるのと同時に、内界の何物かにも対応しているからではないのか、と私は考えてみる。つまり、写真は外界と内界を同時に表現できる。ただし、写真が内界の何物を表現しているのかは必ずしも明らかでない。その謎が写真の魅力なのだろうか。写真は外界に存在する現実と、内界に生まれる感覚の橋渡しになることができる。これは本当に素晴らしいことだろう。
 写真に限らず、外界と内界にまたがるこの謎を解くのは容易なことではないし、そこで楽をしようとすると我々はつまらないオカルトや危険なカルト宗教につまずいてしまう。それを正しく解くために、もしかしたらこんなふうな厳しい冬を乗り越えることが必要になるのだろうか。
 この文章を書いている私も何だかよく分からなくなってきたけれど、小松左京の短編に「われわれの時代は、あまりにも理性を過大評価しているのかも知れんな…」というせりふがあったことを私は思い出している。感性を磨くのは理性しか無い、ということをわきまえた上で、私はこの言葉を忘れずにいようと思う。
あとは、春の陽射しと温もりをいとおしんで私は写真を撮り続ければよい。そして、これから出会うひとを楽しみに待っていればよい。そんな精神は年を取らないし、その世界では因果律も時間の流れも常識とは異なってくる。
 ・・・クリフォード・ブラウンのトランペットが奏でる「春の如く」という素晴らしいバラードを私は思い出している。新緑が萌える春よ早く来い!


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