時をながめて、みたび

この文章が掲載される頃、私はまたひとつ年を取ることになる。もちろん、そんなことは私以外のひとにとってはどうでもいいことである。ただ最近、俺も少し年を取ったかな、と思えることがいくつかあるので、それをあれこれ考えてみることにする。
 三十代なかばにさしかかった頃、かつての同級生から届いた年賀状に、「そろそろ人生の折り返し点」と書いてあったのに私はびっくりして、「マイルス・デイヴィスやアート・ブレイキーのようにどん欲にしぶとく生き続けて、死ぬ時に、あの時が人生の折り返し点だったな、と思えればそれでよいのではないでしょうか」という返事を出した記憶がある。まだたいしたこともしていないくせに、なぜそんなに早く老けこんでしまおうとするのか、私にはまるで分からない。
 私のその気持ちに今も変わりは無いのだけれど、それでも、最初に書いたように、俺は中年のなかばにさしかかってきたな、と思わされることがいくつかある。中年のなかばということは、言葉のとおりそれはまさに人生の折り返し点ということになる。何の断りも無しに勝手に始まっていたこの人生を、ある程度冷静に眺める余裕が私にもようやく生まれた、ということかもしれない。人生のなかばになってようやくそれが分かるのだから、人生というのはまことに効率の悪いものだ、という気がする。
 もうひとつ思い出すことは、三十代の終わり頃に、私は手相に詳しい友人に自分の手相を見てもらったことがあった。その友人が言うには、「あなたは自分でも嫌になるくらい長生きすることになっていますから覚悟して下さい、死にたいなんて思ってはいけません」ということだった。それは、私がうつ病で苦しんでいた頃で、友人は私を励ますつもりでそう言ってくれたのだろうとは思うけれど、それがまったくのお世辞だったとも私には思えないのだ。
 たとえば、スコット・ラファロやクリフォード・ブラウンのように、二十代で素晴らしい仕事を残して、不本意にも三十歳になる前に世を去ってしまう、というような、伝説的な天才の生き方は私には許されていなかったし、縄文時代のように、平均寿命が三十歳の世の中に私は生きているわけでもない。結局、心身の健康を保つ努力をしながら私は生き続けるしかないのである。
 その、三十歳を前にする頃、今思えばお笑いだけど、これなら死んだ方が楽だ、と思えるような目に遭ったことが何回かあったような気がする。しかし、私はこうしてしぶとく生き残ってしまった。生き残ったからには何か私にはやるべきことがあるのだろう、ということで、それ以来、私は自分で言うのも何だけれどずいぶん素直になったような気がする。その時にようやく私の人生が始まったのかもしれない。
 それから数年してうつ病を患い、その入り口の時期にフランスを旅してたくさん写真を撮ってたくさんプリントを作って、病気が峠を越した頃にその写真で個展を開いた。病気を克服したところで私は長野県上田市から岩手県盛岡市に帰ってきた。そして今の仕事を始めて、定期的に個展を開くようになって私は今に至るわけである。
 その間、ずっと私を見守って下さり、どんな写真や文章を送ってもそのまま「東京光画館」に掲載してくれた北斎やわらさんには感謝するばかりである。もちろん、やわらさん以外のたくさんのひとたちにも。
 生かされて生き続ける、とはこういうことなのだろうか。
 そんなわけで、私がうつ病と闘っている間に世の中は二十一世紀になった。そして、今の仕事が身に着くようになるうちに世の中はすっかりデジタル化して、それは私にはとてもついてゆけないくらいに巨大化して細分化してしまった。私は途方にくれるばかりだけれど、最低限のことをわきまえて自分にできることを続けていれば、それでも何とか生きてゆけることが分かった。
 写真とは関係無い私の毎日の仕事にしても、「若くて優秀な連中が気持ちよく仕事ができるように助けてやるのが俺の仕事だ」と思うと私は気持ちよく仕事ができるし、そうすると彼らも私を信頼して何くれとなく気遣いをしてくれる。私の性格からしても、私の仕事はこれでよいのだと思う。それはこんなふうにある程度は年を取らないとできないことだと思う。そうであれば、うつ病に苦しんでリタイアしていた時間は決して無駄ではなかったことになる。
 私に仕事をさせてもらえるのはとてもありがたいことだし、こうして私の写真や文章を見たり読んだりして下さるひとがいるのもとてもありがたいことである。私の仕事は苦しんでいるひとを助ける仕事ではないし、私の写真や文章で世の中が動くわけではまったく無い。それでも私はこれを続けてゆくし、それ以外に私が生きる理由は無い。私は天才ではないから、これを高めてゆくためには長い時間が必要になる。けれど、そこにはきっと歓びもあるのだと思う。
 私と比べるべくもないけれど、長い人生を生き抜いて、素晴らしい仕事を残すひとは、もしかしたらそんな決意を持つものかもしれない。  森山大道さんの新作写真集「K」を眺めて、アサヒカメラに掲載された森山さんのインタビューを読んで私はそんなことを思った。この、洗練されたデジタルのモノクロ写真には不思議な余裕が感じられる。それがとても魅力的なのだ。写真が時を越えて自由に浮遊してゆく。
 私もいつか、そんな場所にたどり着けるのだろうか。でも森山さんは、余裕なんて無いよ、俺だって同じだよ、と言うような気がする。「K」から森山さんのそんな声も聞こえる。
 話をもどすと、私の中で今も生々しくうごめく古い思い出と、遠い未来のちょうど真ん中に今、私はたたずんでいるのだと思う。その両方を等しく眺めることができるのは、もしかしたら今しか無いのかもしれない。それは、長い人生につかの間だけ訪れる貴重な時間なのだろうか。
 それを味わい尽くした後、私はまた旅を始めるだろう。つまり、今までとはまったく別の時間が私のために用意されているのかもしれない。


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