写真という魔法

やわらさんが、反感を買うかもしれないけれど、と断りをつけて「お金が無ければ写真は止めた方がいい」と言っている。私なら、「楽しくなくなったら写真は止めた方がいい」と言うだろう。
 写真が楽しくなくなった、というのは本人に時間や気持ちの余裕が無くなった、ということなのだろう。考えてみると、お金が無くなったので写真を止めた、という話を私は聞いたことが無い。世の中には写真なんかよりもずっとお金がかかる道楽がいくらでもある。
 写真は極めて安上がりなメディアであって、数年前、カメラ雑誌でホームレス生活を経験した写真家が紹介されていたことがあった。その写真家は、売り物にならない中古カメラを店からゆずってもらって撮り続けていた、とのことである。本人はもちろん大変だろうけれど、住む家が無くなっても写真は続けることができる。この写真家から私はそんな覚悟を教わった。
 それより前、私は心身の病に苦しんだうえに失業して、お金が底をついたことがあったけれど、それでも不思議なことに写真をほそぼそと撮り続けていた。それが病に苦しむ私を支え続けていたのもたしかである。お金が無いのは写真を続けられない理由にはならない、というのがやわらさんの本意ではないだろうか。その意味では写真は厳しい。
 ところで、写真は時間を止める魔法である。これは神にも悪魔にも不可能な禁断の力である。この魔法を駆使するのは写真家だけに許された特権である。つまり、写真家はカメラという機械に依存しているとは言え、神や悪魔を越える力をふるう、特権的な魔法使いなのである。だから、写真家にとって写真が楽しくないなんてことはあり得ないし、もしそうなってしまったら、写真を続ける理由なんかどこにも無い。
 だから、写真が職業として成り立つほどにはお金にならない、というのも当然のことだと私は思っている。写真家がそんな特権を駆使して楽しい思いをしたうえに、お金を儲けて楽をしよう、なんてあまりにも虫が良すぎるだろう。
 前にも書いたことがあるけれど、他人に評価されるほどの写真を撮る才能がある人間ならば、わざわざプロなんかにならなくとも、もっと世のためひとのためになる職業を見つけることができるはずだ。そのかたわら素敵な写真をたくさん残せばよいだろう。それに、写真家にとって、写真とひとまず無縁な職業に就いて世の中とリアルに関わるのはとても大事なことだと私は思うのだ。
 写真は特権的な魔法ではあるけれど、それは最初から最後まで、すべてが大量生産の工業製品の組み合わせに依存したメディアである。それもたしかなことである。原理的にその程度のものでしかない写真を、芸術とか表現とか称するのは思い上がりもはなはだしい。これも私の変わらぬ思いである。
 そして、お金を儲けたければプロになれ、という意見もあるけれど、写真なんてお金を儲けるにはあまりにも割が合わない作業だろう。そのうえ、プロの世界には若くて使いでのある連中が次々に現れてくるのだから、天才でもない限り、写真で儲け続けるなんてできるわけが無い。もっと楽にお金を儲ける手段なんか世の中にいくらでもあるはずだ。
 写真はのめり込みやすくて狂気との距離がものすごく短いんだよ、と荒木経惟さんが語っていたのを私は憶えているけれど、もしかしたら、あまりのめり込み過ぎない、というのも写真を続けるコツのひとつなのかもしれない。
 写真は魅力的な魔法ではあるけれど、世の中には他に楽しいことがたくさんある。そして、世の中には写真と関わりの無いものなんか何ひとつとして存在しない。これはたしか立木義浩さんの発言だったと思う。
 写真家の視野が狭くなると写真はすぐに痩せてしまう。これも立木さんの発言だった。ならば、ひたむきに生きること、しぶとくしなやかに撮り続けること。写真家の仕事はそれに尽きるような気がする。
 だから、写真はただの道楽でしかないのか、と問われたら、それは写真家の決意と生き方しだいだろう、と私は答えておきたい。私自身、楽しく撮った写真が思いがけずたくさんのひとに気に入ってもらって感謝される、という本当にありがたい経験を何度もしている。写真には見知らぬ他人を支える力がある。ひととひととを結ぶ力がある。これは写真の最大の幸せではないだろうか。
 そして、写真は職業にするには不向きだけれど、まったくお金にならないというわけでもない。それも私は知っている。一生懸命やっていれば、まあ老後のお小遣いくらいにはなると思う。それで充分ではないか。
 結局、写真家は写真の魔法を正しく使うことができれば、このうえない幸せを手にすることができる。それを自覚して撮り続ければよいのだろう。それが私の結論である。
 デビュー以来二十九連勝を達成した将棋の藤井四段を見て、私はそんな謙虚さと自信を教わった。彼は、勝ちを決めると負かした相手よりも深くお辞儀をする。勝ちを重ねても決して驕ることが無い。「次の対局も相手に教わるつもりで全力でぶつかる」とコメントする。そして、勝った時にだけ本当に素敵な笑顔を見せてくれる。余談ながら、藤井四段は人口知能と人間が共存する可能性の一端を示唆している、という見解もあった。
 そんな藤井四段は、今や将棋を知らないひとにまで深い感動を与えている。それは天才にしか許されないことなのかもしれないけれど、これは将棋の恐るべき力には違いない。写真だってきっと同じはずだ。写真の深い力を写真家は大切にしなければならない。そのうえで、たかが写真の素晴らしさ、ということは可能だろうと私は思っている。


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