気の抜けた時の読書
少し時間に余裕ができたので、その間に私は撮りためたモノクロフィルムの現像をしたり、あちこちの整理整頓をしたり、今まであまり読む気になれなかった本を読んだりして過ごしている。いつのまにかたまってしまった疲れも出ているみたいなので、こんな時にはそれがちょうどよいのかもしれない。季節は梅雨入り直前で緑が濃い。
実家の本棚にあった松本清張の「分離の時間」を読んでみる。松本清張を読むのは私はこれが初めてである。文章が明晰で話がとても緻密だと思う。もちろん面白いけれど、私には少し息苦しい。でも、これが書かれた時代の、蒸し暑いような気配はよく伝わってくる。私はそれをおぼろげに記憶している。その気配をこうして時折は思い出しておいた方がよいような気がする。
そして、高校の頃に買って、ずっと私の本棚の飾りになっていた福島正実訳の「不思議の国のアリス」をようやく読む。和田誠のさし絵も素晴らしい。私の古くからの愛読書である舟崎克彦の「ぽっぺん先生の日曜日」がこの本へのオマージュである、ということがようやく私にも納得できる。
このふたつの物語は、どちらかがより優れている、という比較の対象ではなくて、もしかしたら、国と時代を越えて、おたがいを補い合っているような印象を受ける。「アリス」の明晰でクールで、それでもどこかしら不思議な色気が私にそう思わせてくれるのかもしれない。この本は今までずっと読む気になれなかったけれど、不思議に手放す気にもなれなかった。ようやく私にもこの本を楽しむ資格が備わったのだろうか。そうだとしたらとても嬉しい。
作者のルイス・キャロルの本業が数学者で、写真の草創期を代表するアマチュア写真家であったことも忘れずにいようと私は思う。まるでアラーキーの「少女世界」の原型を思わせるような、あの妖しく魅力的な肖像写真を私は憶えている。もしかしたら、写真と言葉の関係、その謎と色気を最初に体現したのがこのひとだったのだろうか。
「アリス」の異様にクールな文章を読んでいると私はそんな気持ちになる。私にはよく分からないけれど、それは数学の世界とも何か関係があるのだろうか。そして、この物語の中に出てくる言葉遊びが、ジャズミュージシャンが作る曲名に頻発していることにも気づかされる。天才ベーシスト、スコット・ラファロが事故死する直前に、彼を含むビル・エヴァンス・トリオが録音した「不思議の国のアリス」という曲もあった。
「アリス」も「ぽっぺん先生」も、いつの間にか異界に迷いこんでしまった主人公が、様々な体験をしてふたたび現実に帰ってくる話であることを私は思い出す。
今、私がひさしぶりに過ごしている、時間に少し余裕があるこの生活が異界なのだろうか。それとも、あくせくとひと並みに忙しく過ごしていたのが異界だったのだろうか。それを考え始めるとよく分からなくなる。でも、世の中が今、みんなで悪い夢をみてどうにもならなくなっているということは今の私にはよく分かる。
・・・少しずつ現像から上がってくるモノクロのネガには相変わらず日常的な盛岡の町やひとびとの断片が写っている。その、さらさらと写し続けた断片が、私の、物語にならない物語を紡ぎ始めるのかもしれない。それが異界へのささやかな入口になってくれれば私はとても嬉しい。
こんな時はかえって写真を撮る気があまりしなくなってしまうものなので、私は日曜日の町歩きを今までどおり続けるにせよ、あいかわらず気ままにシャッターを押し続けて、あとはふだんあまり読まない本を読んだりして過ごそうと思う。
今までの、あたり前だと思っていた日常を、こんなふうに裏側から検証するようなつかの間の休暇も悪くない。