湖の底に座っているみたいに静か
村上春樹の短編集「カンガルー日和」を初めて読んだのはもう三十年くらい前のことだけれど、そこに収められている「チーズ・ケーキのような形をした僕の貧乏」という話が私はとりわけ好きである。この短編は、追憶の中に現れる幸せな孤独とか連帯というものをこのうえなく上手く描いていると私は思う。
この短編の終わりに現れる文を少しだけ引用させていただく。「まるで湖の底に座っているみたいに静かだった。僕たちは若くて、結婚したばかりで、太陽の光はただだった。」
もうひとつ、今は手に入りにくいみたいだけど、アインシュタインのエッセイ「晩年に想う」に私の大好きな文がある。「そのような孤独の中に、私は住まっています。その孤独は、青年時代には苦痛でもありましょうが、ひとかどの年をとってしまうと、甘美なものでもあるのです。」
私のような者であっても、いくらか年を取るとその気持ちはとてもよく分かるようになる。この孤独を知ってしまうと、年を取るのも悪くないな、と思えるようになる。
この地上には、太陽の光が惜しみなく降りそそいで、どこまでも透明な景色が広がっている。そこで私は生き続けている。世の中にはろくでもないことも多いけれど、暖かい心を持ったひともたくさんいて、そんなひとたちの無償の努力が世の中を支えている。そんなひとたちが私を様々に気遣ってくれる。私は写真を撮り、文章を書き、もちろん仕事をして生き続ける。
今になって、そんな孤独を自分のものとして理解できるようになったのは、古い思い出を語り合える友人たちと疎遠になってしまったからだと思う。四十代に人間関係が大きく入れ替わったという実感が私にはあるけれど、これが大人になるということなのかもしれない。
古い友人たちと疎遠になると、思い出が自分だけのものになる。もちろん、友人たちの全員と絶交してしまったわけではないけれど、そのほとんどは今、年賀状で近況を知らせあうだけになってしまっている。もっと年を取れば、またつきあいが復活してつるんで昔話をするようになるのかもしれないけれど、今はその時期ではない。それはおたがいによく分かっている。
だからこそ、今でも数年にいちどくらいに会う古い友人は、まさに貴重な宝物である。不思議なことに、彼とのつきあいは高校の頃と同じである。ふたりして町を歩いて本屋や美術館に入ったりして雑談をする。昔話も仕事の話も家庭の話も彼とはまったくしない。高校の頃と変わったことと言えば、お酒を少し飲むようになったことくらいだ。そんなつきあいの方が長続きするし、あまりにも親密なつきあいよりもずっと大切なものになるみたいだ。
そんな今の私にとって、古い思い出は、まるで湖の底にころがっている綺麗な石のようなものだと思う。それは今でも生命を持って息づいていて、たくさんのことを私に語りかけてくれる。楽しさと暖かさと恥ずかしさを今でも私に届けてくれる。
きっと、これはとても幸せなことなのだろう。今の私は、本当にささやかではあるけれど、曲がりなりにも少年時代の夢がかなえられている。もちろん、そこにいくらかの犠牲が伴ってはいるけれど、私は少年時代の自分に誇りを持って向き合うことができる。そうすると、少年時代の自分が今の私の背中を押して励ましてくれる。ずっとそんなふうに生きてゆければ幸せだと思う。
森山大道さんが二十代の頃に新人賞を受けた時、「人間は真実にうれしいときは、またかぎりなく寂しいものだということもその夜しみじみと分かった。」とエッセイ「犬の記憶」の中で書いておられた。それと同じ気持ちが今の私には分かるような気がする。それはまさに「湖の底に座っているみたいに静か」なことなのだ。
森山さんはその後、フォトエッセイ「遠野物語」の中で「これが人生か、よし、もう一度」とも書いておられた。その後に「遠野よしばしさようなら」と続けている。もしかしたら「思い出よしばしさようなら」と言わなければならない、新たな場所が私には用意されているのかもしれない。
惜しみなく降りそそぐ透明な光の中で、いったい何が始まるのだろうか、と私は思う。それでも、ともに生き続けている暖かい心を持ったひとたちや、古い思い出が私を支え続けることに変わりは無い。
もっと年を取った時、私は何を思うのだろう、と新緑の季節にとりとめの無いことを思うばかりである。