非常識な読書、ふたたび

以前書いた「非常識な読書」では、筑摩世界文学大系「サド/レチフ」に収められているレチフ・ド・ラ・ブルトンヌの「ムッシュー・ニコラ」と、光文社新書から出ている松原隆彦氏のエッセイ「宇宙に外側はあるか」と「宇宙はどうして始まったのか」を読んだ話を書いた。今、私はサドの「ソドムの百二十日」の佐藤晴夫による新訳(初の全訳)と、松原隆彦氏の同じく光文社新書から出たエッセイ「目に見える世界は幻想か? 物理学の思考法」という本を同時に読んでいる。
 もしかしたら、サドを読むというのは限られた人間だけに許された特権なのだろうか、とついつい思ってしまうすさまじさがサドの長編小説にはあって、読み始めると止められなくなる。サドは、これ以上の作家はいない、という作家であって、まさにこれは文学の極北と言うしかないだろう。
 この「ソドムの百二十日」はサドがフランス革命の時代、不本意にもバスティーユの牢獄に閉じ込められていた時に、十二メートルにも及ぶ巻紙にびっしりと書き付けた労作なのだが、革命のどさくさで、完成する前に作者から奪い取られてしまってずっと行方不明になっていたとのことである。だから、作品のすべてが小説として完成しているわけではなくて、その後半は創作のためのメモといったおもむきがある。しかし、だからこそ、その部分は信じられないくらい残虐で奇怪な幻想の羅列として成立している。
 物語としては、これはそれほど複雑な小説ではないと私は思う。人里離れたお屋敷に、あちこちから誘拐してきた美しい奴隷たちを相手に道楽者たちが常軌を逸した情事の限りを尽くして、その合間に経験豊かな女の、これまた常軌を逸した情事の思い出が語られる。このような二重構造の小説を構想したところにも、作家サドの才能が現れているのだろう。読んでいて飽きない理由がここにもある。
 そんなわけで、サドは異常な情熱をもってこれを執筆しているとは言え、あくまでも本人は正気で冷静であり、訳者が指摘するように、サドに人間の異常さを見つめる科学的な視点があるのは確かだろう。そして、サドやその作品よりもはるかに有名になってしまった「サディズム」という言葉はサドの死後、だいぶ年月が過ぎてから精神医学者が作り出したものであって、サドの存命中には無かったということもわきまえておく必要があると私は思う。もしかしたら、サドとサディズムは別のものかもしれない、と私は思ってみたりする。
 結局、十八世紀の作家でいちばん未来に残ってゆくのはサドだろうと私は思っている。最近よく言われることだけど、サドは没後二百年を経てもなお、現在進行形の大作家であるということなのだろう。
 だから、私はこれを読んで欲情することは無いし吐き気をもよおすことも無い。それでも、この作品のすさまじさはとてもここに書くことはできないので、興味のある方は書店のフランス文学の棚の前で立ち読みでもしてもらうしかない。
 十数年前に岩波文庫から出た植田祐次訳の「ジュスチーヌまたは美徳の不幸」も私はもちろん愛読している。この「思想小説」の全編にわたって展開される狂った論理を味わうのが楽しい。サド研究は日本でもフランスでも日進月歩のようで、私としては、かつての澁澤龍彦訳よりも最近の訳の方がずっと読みやすい。
 サドがいかに繊細で優しく教養にあふれ、しかも愛情に飢えていたひとだったか、ということも、特に「ソドムの百二十日」のあちこちから感じ取ることができる。訳者が言うとおり、サドは人間的に魅力のあるひとだったのだろう。それをわきまえてサドを読むと、私はもっともっと優しくなれるような気がする。
 いずれにせよ、サドを読むとある種の達観を得る。「ソドムの百二十日」は過激きわまりない人間喜劇なのだと私は思う。サドの過激さに比べれば、我々が生きている現実世界の愚劣さなどまったく取るに足らなくなる。つまり、サドはその作品を冷静に読み進む者に、これ以上無い「生きる勇気」を与えるのである。
 ところで、ふだん私は本を買う時に、書店のカバーはおことわりしているのだけど、さすがに、この「ソドムの百二十日」にはレジでカバーをかけてもらった。担当してくれたのはお店の綺麗なお姉さんだったけれど、お金を払いながら私は彼女にサド談義をしてしまったのも楽しい思い出になった。「サドは素晴らしい作家だと思うけれど、さすがにこの本にはカバーをかけて下さい」という私に対して、彼女はていねいに、時間をかけてその作業をしてくれた。「こんなふうにカバーをかけさせてしまうのがサドの凄さなんですね」とか「サドを読むと生きる勇気がわく」と言う私に、彼女はにっこり笑って本を渡してくれたのだった。サドの理解者は世の中に案外たくさんいるのかもしれない。
 もうひとつ、松原隆彦氏の「目に見える世界は幻想か? 物理学の思考法」は光文社新書の既刊と同様、数式や図表を一切用いないで、物理学の歴史やその研究の最先端を分かりやすく魅力的に解説していて見事である。
 この本の内容を紹介するのはとても私の手に負えることではないのでそれはできない。ただ、「美術や音楽を創作する才能がなくともその美しさを楽しむことができるのと同じように、数式を計算する技術がなくても物理学の美しさを楽しむことはできるはずだ」という文は私のような者をとても勇気づけてくれる。また、「人間の見た目通りの世界は、本当の世界の姿なのではなく、そうではない何か別の世界のようなものから現れ出てきたようなのだ」という文は私を突き放して途方に暮れさせてしまう。
 要するに、この世はすべて仮の姿なのかもしれないけれど、そこには常識では理解できない厳然とした法則があって、人間は実はとことん自由な存在であり、世界は美しい。そういうことなのだろうか。
 サドを読み、物理学のすぐれた解説を読んで、私はそんな場所に導かれつつあるような気がする。そして今、季節がめぐってようやく春がやって来る。燃えるように動き始める春が待ち遠しい。


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